Surah Al-Balad
بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ
لَآ اُقْسِمُ بِهٰذَا الْبَلَدِۙ١
Lā uqsimu bihāżal-balad(i).
[1]
われはまさに、この町(マッカ*)において誓う。¹
1 アッラー*による、この誓いについては、整列者章1の訳注を参照。
وَاَنْتَ حِلٌّۢ بِهٰذَا الْبَلَدِۙ٢
Wa anta ḥillum bihāżal-balad(i).
[2]
——(預言者*よ、)あなたはこの町で、許された者¹である——
1 これは預言者*が、マッカ*の神聖さ(雌牛章125の訳注も参照)にも関わらず、後にそこで戦うことを「許され」、開城することを約束するもの(アル=バガウィー5:254参照)。その他「居住者」「アッラー*のご満悦を受けた善行者」「罪なき者」といった解釈もある(アル=クルトゥビー20:60-61参照)。
وَوَالِدٍ وَّمَا وَلَدَۙ٣
Wa wālidiw wa mā walad(a).
[3]
また、生むものと生まれたもの¹にかけて(誓う)。
1 「生むものと生まれたもの」の 解釈には、それぞれ「アーダム*とその子孫」「全ての生むものと、生まれるもの」「生む者と、不産の者」などの諸説がある(イブン・カスィール8:402-403参照)。
لَقَدْ خَلَقْنَا الْاِنْسَانَ فِيْ كَبَدٍۗ٤
Laqad khalaqnal-insāna fī kabad(in).
[4]
われら*は確かに、人間を(現世の)辛労¹の中に創った。
1 「現世と来世での辛労」「きちんと整った形に創った」などといった解釈もある(前掲書8:403参照)。
اَيَحْسَبُ اَنْ لَّنْ يَّقْدِرَ عَلَيْهِ اَحَدٌ ۘ٥
Ayaḥsabu allay yaqdira ‘alaihi aḥad(un).
[5]
一体、彼は思っているのか、(自分が集めた財産ゆえに、)誰も自分を掌握(し、罰)することなどないと?
يَقُوْلُ اَهْلَكْتُ مَالًا لُّبَدًاۗ٦
Yaqūlu ahlaktu mālal lubadā(n).
[6]
彼は(、得意になって)言う。「私は、山ほどの財産を使い切ったぞ」。
اَيَحْسَبُ اَنْ لَّمْ يَرَهٗٓ اَحَدٌۗ٧
Ayaḥsabu allam yarahū aḥad(un).
[7]
一体、彼は思っているのか、誰も彼を見ていなかったと?
اَلَمْ نَجْعَلْ لَّهٗ عَيْنَيْنِۙ٨
Alam naj‘al lahū ‘ainain(i).
[8]
一体、われら*は彼に、二つの眼を与えてやったではないか?
وَلِسَانًا وَّشَفَتَيْنِۙ٩
Wa lisānaw wa syafatain(i).
[9]
また、一本の舌と、二つの唇を?¹
1 つまり、それらのものを人間に備え付けられたアッラー*は、人間を蘇(よみがえ)らされ、その行いを全てご覧になることもお出来なのである(アル=クルトゥビー20:65参照)。
وَهَدَيْنٰهُ النَّجْدَيْنِۙ١٠
Wa hadaināhun-najdain(i).
[10]
また、われら*は彼を、二つの道筋¹へと導いてやったのだ。
1 アル=バガウィー*によれば、大半の解釈学者は「二つの道筋」を、善と悪、真理と虚偽(きょぎ)、導きと迷いの道と解釈している。人間章3とその訳注も参照(5:256参照)。
فَلَا اقْتَحَمَ الْعَقَبَةَ ۖ١١
Falaqtaḥamal-‘aqabah(ta).
[11]
それで、どうして彼は、(その財産によって、来世という)険しい道(の踏破)へ飛び込まなかったのか?
وَمَآ اَدْرٰىكَ مَا الْعَقَبَةُ ۗ١٢
Wa mā adrāka mal-‘aqabah(tu).
[12]
(来世という)険しい道(の踏破)が何かを、あなたに知らせるのは何か?
فَكُّ رَقَبَةٍۙ١٣
Fakku raqabah(tin).
[13]
(それは、)首¹の解散。
1 この「首」のついては、雌牛章177の訳注を参照(アッ=サアディー924頁参照)。
اَوْ اِطْعَامٌ فِيْ يَوْمٍ ذِيْ مَسْغَبَةٍۙ١٤
Au iṭ‘āmun fī yaumin żī masgabah(tin).
[14]
または空腹の日に、食べ物を施すこと、
يَّتِيْمًا ذَا مَقْرَبَةٍۙ١٥
Yatīman żā maqrabah(tin).
[15]
近親の孤児に、
اَوْ مِسْكِيْنًا ذَا مَتْرَبَةٍۗ١٦
Au miskīnan żā matrabah(tin).
[16]
あるいは、砂まみれの貧者*に。
ثُمَّ كَانَ مِنَ الَّذِيْنَ اٰمَنُوْا وَتَوَاصَوْا بِالصَّبْرِ وَتَوَاصَوْا بِالْمَرْحَمَةِۗ١٧
Ṡumma kāna minal-lażīna āmanū wa tawāṣau biṣ-ṣabri wa tawāṣau bil-marḥamah(ti).
[17]
それから彼は、信仰し、忍耐*を勧め合い、(創造物に対する)慈悲を勧め合う者たちの一人とは(、ならなかったのか)?
اُولٰۤىِٕكَ اَصْحٰبُ الْمَيْمَنَةِۗ١٨
Ulā'ika aṣḥābul-maimanah(ti).
[18]
それらの者たちは、右側の徒¹。
1 「右側の徒」については、出来事章8-9とその訳注を参照。
وَالَّذِيْنَ كَفَرُوْا بِاٰيٰتِنَا هُمْ اَصْحٰبُ الْمَشْـَٔمَةِۗ١٩
Wal-lażīna kafarū bi'āyātinā hum aṣḥābul-masy'amah(ti).
[19]
そして、われら*の御徴(アーヤ*)を否定する者たちは、左側の徒¹。
1 「左側の徒」についても、出来事章8-9の訳注を参照。
عَلَيْهِمْ نَارٌ مُّؤْصَدَةٌ ࣖ٢٠
‘Alaihim nārum mu'ṣadah(tun).
[20]
彼らには、密閉された業火がある。