Surah Al-Fajr

Daftar Surah

بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ
وَالْفَجْرِۙ١
Wal-fajr(i).
[1] 暁にかけて、¹
アーヤ*1-4における、アッラー*によるこの誓いについては、整列者章1の訳注を参照。

وَلَيَالٍ عَشْرٍۙ٢
Wa layālin ‘asyr(in).
[2] また、十夜¹にかけて、
1 この「十夜」は、非常に徳が多いとされる、ズル=ヒッジャ*月の最初の十日間であるとされる(イブン・カスィール8:390-391参照)。

وَّالشَّفْعِ وَالْوَتْرِۙ٣
Wasy-syaf‘i wal-watr(i).
[3] また、偶数と奇数¹にかけて、
この「偶数と奇数」の解釈には、それぞれ「奇数回と偶数回の礼拝」「アラファの日(ズル=ヒッジャ*月九日」とイード*・アル=アドハー(同月十日の犠牲祭)」「(つがいとして、あるいは対極的な別のものと共に創られた)創造物と(唯一である)アッラー*」「文字通り、偶数と奇数、つまり全ての数」など、非常に多くの説がある(アル=クルトゥビー20:39-41参照)。

وَالَّيْلِ اِذَا يَسْرِۚ٤
Wal-laili iżā yasr(i).
[4] また、(その闇と共に)流れ行く夜にかけて(誓う)。

هَلْ فِيْ ذٰلِكَ قَسَمٌ لِّذِيْ حِجْرٍۗ٥
Hal fī żālika qasamul liżī ḥijr(in).
[5] その中には、分別ある者への誓いがあるのではないか?

اَلَمْ تَرَ كَيْفَ فَعَلَ رَبُّكَ بِعَادٍۖ٦
Alam tara kaifa fa‘ala rabbuka bi‘ād(in).
[6] (使徒*よ、)一体あなたは、あなたの主*がアード*に対してされたことを、見なかったのか?

اِرَمَ ذَاتِ الْعِمَادِۖ٧
Irama żātil-‘imād(i).
[7] 柱の主、イラム¹に対して?
1 「イラム」は、アード*の民の部族名。彼らの住居は、「柱」によって非常に高く建築されたものだったとされる(ムヤッサル593頁参照)。

الَّتِيْ لَمْ يُخْلَقْ مِثْلُهَا فِى الْبِلَادِۖ٨
Allatī lam yukhlaq miṡluhā fil-bilād(i).
[8] 諸国において、それと同様の(強靭かつ強力な)ものは創られたことがなかった(、イラムに対して)。

وَثَمُوْدَ الَّذِيْنَ جَابُوا الصَّخْرَ بِالْوَادِۖ٩
Wa ṡamūdal-lażīna jābuṣ-ṣakhra bil-wād(i).
[9] また、渓谷で岩を切り抜い(て、住居とし)たサムード*に対して?

وَفِرْعَوْنَ ذِى الْاَوْتَادِۖ١٠
Wa fir‘auna żil-autād(i).
[10] また、杭¹の主フィルアウン*に対して?
1 この「杭」については、サード章12の訳注を参照。

الَّذِيْنَ طَغَوْا فِى الْبِلَادِۖ١١
Allażīna ṭagau fil-bilād(i).
[11] (彼ら不信仰の民*は、)諸国で放埓さの限りを尽くし、

فَاَكْثَرُوْا فِيْهَا الْفَسَادَۖ١٢
Fa akṡarū fīhal-fasād(a).
[12] そこにおいて腐敗*を散々行い、

فَصَبَّ عَلَيْهِمْ رَبُّكَ سَوْطَ عَذَابٍۖ١٣
Fa ṣabba ‘alaihim rabbuka sauṭa ‘ażāb(in).
[13] それで、あなたの主*がその上に、懲罰の鞭を浴びせられた者たち。

اِنَّ رَبَّكَ لَبِالْمِرْصَادِۗ١٤
Inna rabbaka labil-mirṣād(i).
[14] (使徒*よ、)本当にあなたの主*は、監視の場におられるのだ。

فَاَمَّا الْاِنْسَانُ اِذَا مَا ابْتَلٰىهُ رَبُّهٗ فَاَكْرَمَهٗ وَنَعَّمَهٗۙ فَيَقُوْلُ رَبِّيْٓ اَكْرَمَنِۗ١٥
Fa ammal-insānu iżā mabtalāhu rabbuhū fa akramahū wa na‘‘amah(ū), fa yaqūlu rabbī akraman(i).
[15] 人間というものは、その主*が彼を試練におかけになり、栄誉をお授けになり、恩恵を与え給うた時には、(こう)言う。「我が主*は、私に栄誉をお授けになった」。

وَاَمَّآ اِذَا مَا ابْتَلٰىهُ فَقَدَرَ عَلَيْهِ رِزْقَهٗ ەۙ فَيَقُوْلُ رَبِّيْٓ اَهَانَنِۚ١٦
Wa ammā iżā mabtalāhu fa qadara ‘alaihi rizqah(ū), fa yaqūlu rabbī ahānan(i).
[16] そして、かれが彼を試練におかけになり、彼にその糧を控えられた時には、(こう)言うのだ。「我が主*は、私を卑しめられた」。¹
1 現世におけるアッラー*からの厚遇と恩恵を、アッラー*の御許における自分自身の高貴さと、かれと特別な間柄ゆえのものと考え、逆の場合には、それが自分に対するアッラー*からの卑下(ひげ)であると考える、人間の一般的な性向を示している。しかし物質的な状況の良し悪しは、いずれもアッラー*からの試練なのであり、アッラー*はそのような状況において人が感謝するか、また忍耐*するかをご覧になるのである(アッ=サアディー923頁参照)。サバア章36とその訳注も参照。

كَلَّا بَلْ لَّا تُكْرِمُوْنَ الْيَتِيْمَۙ١٧
Kallā bal lā tukrimūnal-yatīm(a).
[17] 断じて(、そのような考えは正しく)ない!いや、(栄誉はアッラー*への服従、辱めはかれへの反抗によるものなのだ¹、)あなた方は孤児を手厚く扱わず、
1 関連するアーヤ*として、婦人章79、相談章30とその訳注も参照。

وَلَا تَحٰۤضُّوْنَ عَلٰى طَعَامِ الْمِسْكِيْنِۙ١٨
Wa lā taḥāḍḍūna ‘alā ṭa‘āmil-miskīn(i).
[18] 貧者*らに食べさせることも勧め合わず、

وَتَأْكُلُوْنَ التُّرَاثَ اَكْلًا لَّمًّاۙ١٩
Wa ta'kulūnat-turāṡa aklal lammā(n).
[19] 遺産をごっそりと貪り、

وَّتُحِبُّوْنَ الْمَالَ حُبًّا جَمًّاۗ٢٠
Wa tuḥibbūnal-māla ḥubban jammā(n).
[20] 財産をこよなく愛している。

كَلَّآ اِذَا دُكَّتِ الْاَرْضُ دَكًّا دَكًّاۙ٢١
Kallā iżā dukkatil-arḍu dakkan dakkā(n).
[21] 断じて(、そのような状態は正しく)ない!大地が木っ端微塵に、粉々にされ、¹
1 復活の日*の天変地異の様子については、洞窟章47、ター・ハー章105-107、蟻章88、山章9-10、出来事章5-6、衣を纏(まと)う者章14、真実章13-15、階段章8-9、消息章20、巻き込む章3、衝撃章4-5なども参照。

وَّجَاۤءَ رَبُّكَ وَالْمَلَكُ صَفًّا صَفًّاۚ٢٢
Wa jā'a rabbuka wal-malaku ṣaffan ṣaffā(n).
[22] あなたの主*と、次から次へと隊列を組んだ天使*が到来し、¹
1 同様の状況を示すアーヤ*として、雌牛章210とその訳注、識別章25、真実章15-17も参照。

وَجِايْۤءَ يَوْمَىِٕذٍۢ بِجَهَنَّمَۙ يَوْمَىِٕذٍ يَّتَذَكَّرُ الْاِنْسَانُ وَاَنّٰى لَهُ الذِّكْرٰىۗ٢٣
Wa jī'a yauma'iżim bijahannam(a), yauma'iżiy yatażakkarul-insānu wa annā lahuż-żikrā.
[23] その日、地獄がもたらされる時¹、その日に(不信仰な)人間は教訓を受け(、悔悟す)る²。(現世は終わってしまったというのに、)教訓(と悔悟)が、どうして彼の役に立とうか?
1 その日、地獄は七万の手綱をつけられて、持って来られる。その各々の手綱には、それを引っ張る七万の天使*がついている(ムスリム「天国とその享楽、及びその住人の描写の書」29、イブン・カスィール8:399参照)。 2 復活の日*の悔悟については、家畜章158とその訳注を参照。

يَقُوْلُ يٰلَيْتَنِيْ قَدَّمْتُ لِحَيَاتِيْۚ٢٤
Yaqūlu yā laitanī qaddamtu liḥayātī.
[24] 彼は言う。「あぁ、(来世での)我が人生のため、あらかじめ(現世で、有益な行いを)しておけばよかった!」

فَيَوْمَىِٕذٍ لَّا يُعَذِّبُ عَذَابَهٗٓ اَحَدٌ ۙ٢٥
Fa yauma'iżil lā yu‘ażżibu ‘ażābahū aḥad(un).
[25] その日、誰もかれ(アッラー*)の懲罰のように罰することはなく、

وَّلَا يُوْثِقُ وَثَاقَهٗٓ اَحَدٌ ۗ٢٦
Wa lā yūṡiqu waṡāqahū aḥad(un).
[26] 誰も、かれの縛り方のように縛ることはない。

يٰٓاَيَّتُهَا النَّفْسُ الْمُطْمَىِٕنَّةُۙ٢٧
Yā ayyatuhan-nafsul-muṭma'innah(tu).
[27] (アッラー*の唱念と、かれへの信仰へと)安らぐ魂よ、

ارْجِعِيْٓ اِلٰى رَبِّكِ رَاضِيَةً مَّرْضِيَّةً ۚ٢٨
Irji‘ī ilā rabbiki rāḍiyatam marḍiyyah(tan).
[28] (アッラー*からの御もてなしに)満足し、(アッラー*から)ご満悦を受けつつ、あなたの主*へと戻るがよい。

فَادْخُلِيْ فِيْ عِبٰدِيْۙ٢٩
Fadkhuli fī ‘ibādī.
[29] そして、わが(正しき)僕たちのところに入り、

وَادْخُلِيْ جَنَّتِيْ ࣖࣖ٣٠
Wadkhulī jannatī.
[30] (彼らと共に、)わが楽園に入るのだ。