Surah Al-A’la
بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ
سَبِّحِ اسْمَ رَبِّكَ الْاَعْلَىۙ١
Sabbiḥisma rabbikal-a‘lā.
[1]
至高なる、あなたの主*の御名を称え*よ。
الَّذِيْ خَلَقَ فَسَوّٰىۖ٢
Allażī khalaqa fasawwā.
[2]
創造され、(創造物を完璧に)整えられたお方を。
وَالَّذِيْ قَدَّرَ فَهَدٰىۖ٣
Wal-lażī qaddara fahadā.
[3]
また、(全てを)調整し給い、お導きになった¹お方を。
1 この「導かれた」については、ター・ハー章50の訳注を参照。
وَالَّذِيْٓ اَخْرَجَ الْمَرْعٰىۖ٤
Wal-lażī akhrajal-mar‘ā.
[4]
また、(家畜に)食ませる(緑の牧)草をお出しになり、
فَجَعَلَهٗ غُثَاۤءً اَحْوٰىۖ٥
Fa ja‘alahū guṡā'an aḥwā.
[5]
そしてそれを、黒ずんだ枯れ草とされたお方を。
سَنُقْرِئُكَ فَلَا تَنْسٰىٓ ۖ٦
Sanuqri'uka falā tansā.
[6]
(使徒*よ、)われら*は、あなたに(ジブリール*を介して、クルアーン*を)読ませよう。そして、あなたは(それを)忘れない。
اِلَّا مَا شَاۤءَ اللّٰهُ ۗاِنَّهٗ يَعْلَمُ الْجَهْرَ وَمَا يَخْفٰىۗ٧
Illā mā syā'allāh(u), innahū ya‘lamul-jahra wa mā yakhfā.
[7]
但し、アッラー*がお望みになったもの¹は別だが。本当にかれは、露わなものも、隠されるものもご存知なのだから。
1 アッラー*が、かれがご存知になる利益ゆえ、それを忘れさせることが英知に敵(かな)うもののこと(ムヤッサル591頁参照)。雌牛章106の、アーヤ*の撤回についての訳注も参照。
وَنُيَسِّرُكَ لِلْيُسْرٰىۖ٨
Wa nuyassiruka lil-yusrā.
[8]
また、われら*はあなたに、(あらゆる物事における)容易さへと導いてやろう。
فَذَكِّرْ اِنْ نَّفَعَتِ الذِّكْرٰىۗ٩
Fa żakkir in nafa‘atiż-żikrā.
[9]
ならば(使徒*よ、あなたに啓示されたもので、民に)教訓を与えよ。もし、教訓が役立つならば(、だが)¹。
1 つまり、教訓に対して頑固で、それを受け入れないような者の教訓に勤(いそ)しむことはない、ということ(ムヤッサル591頁参照)。または、「教訓が役立ったならば」の後に「あるいは、役立たなくても」という文が省略されている、という説もある(アル=バガウィー5:242参照)。
سَيَذَّكَّرُ مَنْ يَّخْشٰىۙ١٠
Sayażżakkaru may yakhsyā.
[10]
(自らの主*を)恐れる者は教訓を受け、
وَيَتَجَنَّبُهَا الْاَشْقَىۙ١١
Wa yatajannabuhal-asyqā.
[11]
最も不幸な者は、それを回避しよう、
الَّذِيْ يَصْلَى النَّارَ الْكُبْرٰىۚ١٢
Allażī yaṣlan-nāral-kubrā.
[12]
至大なる業火に入って炙られる(者は)。
ثُمَّ لَا يَمُوْتُ فِيْهَا وَلَا يَحْيٰىۗ١٣
Ṡumma lā yamūtu fīhā wa lā yaḥyā.
[13]
それから、彼はそこで(安らぐために)死ぬことも、(有益な生を)生きることもない。
قَدْ اَفْلَحَ مَنْ تَزَكّٰىۙ١٤
Qad aflaḥa man tazakkā.
[14]
自ら努めて清めた者¹は、確かに成功したのである。
1 シルク*や不正*、悪い品性から自らを「清めた者」のこと(アッ=サアディー920頁参照)。ター・ハー章76の同語についての訳注も参照。
وَذَكَرَ اسْمَ رَبِّهٖ فَصَلّٰىۗ١٥
Wa żakarasma rabbihī fa ṣallā.
[15]
そして、自らの主*の御名を唱念し¹、礼拝²した(者は)。
1 アッラー*を想起し、その唯一性*を信じ、かれに祈り、かれのご満悦に沿う行いを行うこと(ムヤッサル592頁参照)。 2 これは一説に、毎日五回の義務の礼拝のこと(イブン・カスィール8:381参照)。
بَلْ تُؤْثِرُوْنَ الْحَيٰوةَ الدُّنْيَاۖ١٦
Bal tu'ṡirūnal-ḥayātad-dun-yā.
[16]
いや、(人々よ、)あなた方は(来世の安寧よりも)、現世の生活の方を愛している。
وَالْاٰخِرَةُ خَيْرٌ وَّاَبْقٰىۗ١٧
Wal-ākhiratu khairuw wa abqā.
[17]
来世(の安寧)は(現世のそれ)より善く、より長く続くものなのに。
اِنَّ هٰذَا لَفِى الصُّحُفِ الْاُوْلٰىۙ١٨
Inna hāżā lafiṣ-ṣuḥufil-ūlā.
[18]
実にこれ¹は、まさしく最初の書巻に(確証されて)あるのである。
1 この「これ」は、特にアーヤ*14-17を指すとされる(アッ=タバリー10:8597参照)。
صُحُفِ اِبْرٰهِيْمَ وَمُوْسٰى ࣖ١٩
Ṣuḥufi ibrāhīma wa mūsā.
[19]
イブラーヒーム*と、ムーサー*の書巻に。