Surah Al-Buruj
بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ
وَالسَّمَاۤءِ ذَاتِ الْبُرُوْجِۙ١
Was-samā'i żātil-burūj(i).
[1]
星座を擁する天にかけて、¹
1 アーヤ*1-3の、アッラー*によるこの誓いについては、整列者章1の訳注を参照。
وَالْيَوْمِ الْمَوْعُوْدِۙ٢
Wal-yaumil-mau‘ūd(i).
[2]
また、約束された(復活の)日*にかけて、
وَشَاهِدٍ وَّمَشْهُوْدٍۗ٣
Wa syāhidiw wa masyhūd(in).
[3]
また、立ち会うものと立ち合われるものにかけて(誓う)、¹
1 「立ち会うもの(シャーヒド)」と「立ち会われるもの(マシュフード)」は、それぞれ「証言するもの、証言されるもの」とも解釈可能(イブン・ジュザイ2:555参照)。アル=ワーヒディー*によれば、大半の解釈学者は前者と後者を、それぞれ「金曜日とアラファの日(ズル=ヒッジャ*月九日)」と解釈しているが、その他「その逆」「預言者*ムハンマド*(雌牛章143、婦人章41とその訳注を参照)と復活の日*(フード*章103参照)」「人間と復活の日*」など、非常に多くの説がある(23:380-383参照)。
قُتِلَ اَصْحٰبُ الْاُخْدُوْدِۙ٤
Qutila aṣḥābul-ukhdūd(i).
[4]
堀の仲間たち¹が、成敗されますよう。
1 「堀の仲間たち」とは、信仰に入った自国民に対して、堀を掘ってその中に火をつけ、信仰を捨てなかった者をその中に放り込んで殺害した、不信仰者*の王とその手下たちのこと(ムスリム「信心深さと心温まる話の書」73参照)。彼らが殺害した信仰者たちについては、「預言者*ムハンマド*が遣わされるより四十年前の、イエメンのキリスト教徒*」「イスラーイールの民*」「エチオピアの民」「ペルシャの民」などといった諸説がある(アル=クルトゥビー19:289-290参照)。
النَّارِ ذَاتِ الْوَقُوْدِۙ٥
An-nāri żātil-waqūd(i).
[5]
つまり、燃料がくべられた炎という(堀の)。
اِذْ هُمْ عَلَيْهَا قُعُوْدٌۙ٦
Iż hum ‘alaihā qu‘ūd(un).
[6]
彼らが(信仰を棄てない信仰者たちを、その炎で罰するべく、)そこ(の淵)に腰かけた時のこと、
وَّهُمْ عَلٰى مَا يَفْعَلُوْنَ بِالْمُؤْمِنِيْنَ شُهُوْدٌ ۗ٧
Wa hum ‘alā mā yaf‘alūna bil-mu'minīna syuhūd(un).
[7]
自分たちが信仰者たちにすること(懲罰)を、見物しつつ。
وَمَا نَقَمُوْا مِنْهُمْ اِلَّآ اَنْ يُّؤْمِنُوْا بِاللّٰهِ الْعَزِيْزِ الْحَمِيْدِۙ٨
Wa mā naqamū minhum illā ay yu'minū billāhil-‘azīzil-ḥamīd(i).
[8]
そして、彼ら(堀の仲間たち)が彼ら(信仰者たち)を咎めたのは、彼ら(信仰者たち)が偉力ならびなく*、称賛されるべき*アッラー*を信じるがゆえに外ならなかった。
الَّذِيْ لَهٗ مُلْكُ السَّمٰوٰتِ وَالْاَرْضِ ۗوَاللّٰهُ عَلٰى كُلِّ شَيْءٍ شَهِيْدٌ ۗ٩
Allażī lahū mulkus-samāwāti wal-arḍ(i), wallāhu ‘alā kulli syai'in syahīd(un).
[9]
諸天と大地の王権が属するお方(であるアッラー*)を。アッラー*は、全てのことの証人であられる。
اِنَّ الَّذِيْنَ فَتَنُوا الْمُؤْمِنِيْنَ وَالْمُؤْمِنٰتِ ثُمَّ لَمْ يَتُوْبُوْا فَلَهُمْ عَذَابُ جَهَنَّمَ وَلَهُمْ عَذَابُ الْحَرِيْقِۗ١٠
Innal-lażīna fatanul-mu'minīna wal-mu'mināti ṡumma lam yatūbū fa lahum ‘ażābu jahannama wa lahum ‘ażābul-ḥarīq(i).
[10]
本当に、信仰者の男たちと信仰者の女たちを火(という試練)にかけ、その後に悔悟しなかった者たち、彼らにこそは地獄の懲罰があり、彼らにこそは、(焼き尽くす)炎の懲罰がある。
اِنَّ الَّذِيْنَ اٰمَنُوْا وَعَمِلُوا الصّٰلِحٰتِ لَهُمْ جَنّٰتٌ تَجْرِيْ مِنْ تَحْتِهَا الْاَنْهٰرُ ەۗ ذٰلِكَ الْفَوْزُ الْكَبِيْرُۗ١١
Innal-lażīna āmanū wa ‘amiluṣ-ṣāliḥāti lahum jannātun tajrī min taḥtihal-anhār(u), żālikal-fauzul-kabīr(u).
[11]
本当に、信仰して正しい行い*を行う者たち、彼らにこそは、その下から河川が流れる楽園がある。それは大いなる勝利なのだ。
اِنَّ بَطْشَ رَبِّكَ لَشَدِيْدٌ ۗ١٢
Inna baṭsya rabbika lasyadīd(un).
[12]
本当にあなたの主*の(懲罰による)捕らえ方は、実に痛烈なのである。
اِنَّهٗ هُوَ يُبْدِئُ وَيُعِيْدُۚ١٣
Innahū huwa yubdi'u wa yu‘īd(u).
[13]
本当にかれこそは、(創造を)始められ、(それを)お戻しになるのだ。
وَهُوَ الْغَفُوْرُ الْوَدُوْدُۙ١٤
Wa huwal-gafūrul-wadūd(u).
[14]
そしてかれは、赦し深いお方、寵愛深い*お方、
ذُو الْعَرْشِ الْمَجِيْدُۙ١٥
Żul-‘arsyil-majīd(i).
[15]
栄誉高き御座¹の主、
1 「御座」に関しては、高壁章54の訳注を参照。
فَعَّالٌ لِّمَا يُرِيْدُۗ١٦
Fa‘‘ālul limā yurīd(u).
[16]
お望みのことを決行されるお方である。
هَلْ اَتٰىكَ حَدِيْثُ الْجُنُوْدِۙ١٧
Hal atāka ḥadīṡul-junūd(i).
[17]
(使徒*よ、)あなたに、(自分たちの預言者*に対して集結した、不信仰な)軍勢の話は届いたか?
فِرْعَوْنَ وَثَمُوْدَۗ١٨
Fir‘auna wa ṡamūd(a).
[18]
フィルアウン*とサムード*の(話は)?¹
1 ここで特にフィルアウン*とサムード*だけが取り上げられているのは、比較的後代に滅亡した前者は啓典の民*らによく知られており、一方後者は、比較的先代に滅亡したにも関わらず、アラブの地に居住していた民で、アラブ人たちによく知られていたからだと言われる(アル=クルトゥビー19:298参照)。
بَلِ الَّذِيْنَ كَفَرُوْا فِيْ تَكْذِيْبٍۙ١٩
Balil-lażīna kafarū fī takżīb(in).
[19]
いや、不信仰に陥った者*たちは、(彼ら以前の不信仰者*たちと同様、使徒*と啓示の)噓呼ばわりをしており、
وَّاللّٰهُ مِنْ وَّرَاۤىِٕهِمْ مُّحِيْطٌۚ٢٠
Wallāhu miw warā'ihim muḥīṭ(un).
[20]
アッラー*は彼らの後方から、悉く包囲されるお方なのだ。¹
1 アッラー*は彼らを、その知識と御力によって掌握(しょうあく)されており、彼らの行いは全てアッラー*に筒抜(つつぬ)け なのである(ムヤッサル590頁参照)。
بَلْ هُوَ قُرْاٰنٌ مَّجِيْدٌۙ٢١
Bal huwa qur'ānum majīd(un).
[21]
いや、それは栄誉高きクルアーン*¹なのである、
1 つまりそれは、シルク*の徒らが主張していたような詩、占い、魔術などではなく、宗教的・現世的諸事に関する様々な教えを明らかにする、この上ない誉(ほま)れ 、高貴さ、祝福にあふれた啓典である(アッ=シャウカーニー5:552参照)。
فِيْ لَوْحٍ مَّحْفُوْظٍ ࣖ٢٢
Fī lauḥim maḥfūẓ(in).
[22]
(いかなる改変からも無事な、)守られし碑板*の中の。