Surah Al-Insyiqaq

Daftar Surah

بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ
اِذَا السَّمَاۤءُ انْشَقَّتْۙ١
Iżas-samā'unsyaqqat.
[1] (復活の日*に、)天がわれ、¹
1 識別章 25も参照(アル=クルトゥビー19:244参照)。

وَاَذِنَتْ لِرَبِّهَا وَحُقَّتْۙ٢
Wa ażinat lirabbihā wa ḥuqqat.
[2] それ(天)が自分の主*(のご命令)を聞き、(そのご命令への服従が)義務づけられた時、

وَاِذَا الْاَرْضُ مُدَّتْۙ٣
Wa iẓal-arḍu muddat.
[3] また、(山々が粉々にされて)大地が伸ばされ、

وَاَلْقَتْ مَا فِيْهَا وَتَخَلَّتْۙ٤
Wa alqat mā fīhā wa takhallat.
[4] それ(大地)がその中にあるもの(死んだ人々、)を投げ出し、(彼らを)すっかり吐き出し、

وَاَذِنَتْ لِرَبِّهَا وَحُقَّتْۗ٥
Wa ażinat lirabbihā wa ḥuqqat.
[5] それ(大地)が自分の主*(のご命令)を聞き、(そのご命令への服従が)義務づけられた時、

يٰٓاَيُّهَا الْاِنْسَانُ اِنَّكَ كَادِحٌ اِلٰى رَبِّكَ كَدْحًا فَمُلٰقِيْهِۚ٦
Yā ayyuhal-insānu innaka kādiḥun ilā rabbika kadḥan fa mulāqīh(i).
[6] 人間よ、本当にあなたは、あなたの主*へと懸命に励む者であり、そして(復活の日*には)かれ¹と拝謁する身の上なのだ。
1 その他、「自らの善悪の行いと直面する」という解釈もある(イブン・カスィール8:356参照)。

فَاَمَّا مَنْ اُوْتِيَ كِتٰبَهٗ بِيَمِيْنِهٖۙ٧
Fa ammā man ūtiya kitābahū biyamīnih(ī).
[7] それで自分の(行いの)帳簿を、右手に渡された者はといえば、

فَسَوْفَ يُحَاسَبُ حِسَابًا يَّسِيْرًاۙ٨
Fa saufa yuḥāsabu ḥisābay yasīrā(n).
[8] 易しい清算で、清算され、¹
1 高壁章8の訳注も参照 。また、この時の様子については夜の旅章13-14、71とその訳注、洞窟章49、真実章19以降なども参照。

وَّيَنْقَلِبُ اِلٰٓى اَهْلِهٖ مَسْرُوْرًاۗ٩
Wa yanqalibu ilā ahlihī masrūrā(n).
[9] 嬉々として(天国にいる)自分の家族¹のところへ、戻って行くことになろう。
1 この「家族」の解釈には、「近親の内の、天国の住人」「現世で自分の妻子だった者たちで、先に天国に入った者たち」「アッラーが天国の民のために創造した、配偶者たち」「それら全員」といった諸説がある(アッ=シャウカーニー5:541参照)。

وَاَمَّا مَنْ اُوْتِيَ كِتٰبَهٗ وَرَاۤءَ ظَهْرِهٖۙ١٠
Wa ammā man ūtiya kitābahū warā'a ẓahrih(ī).
[10] また、自分の(行いの)帳簿を自らの背後から渡された者はといえば、¹
1 この日、彼らは右手を首に巻き付けられて縛(しば)られ、左手は背中に回されている状態なのだという(アル=バガウィー5:229参照)。真実章25も参照。

فَسَوْفَ يَدْعُوْا ثُبُوْرًاۙ١١
Fa saufa yad‘ū ṡubūrā(n).
[11] (自らに対して)破滅を祈り、¹
1 この情景についての詳細については、識別章13-14とその訳注を参照(前掲書、同頁参照)。

وَّيَصْلٰى سَعِيْرًاۗ١٢
Wa yaṣlā sa‘īrā(n).
[12] 烈火に入って炙られることとなろう。

اِنَّهٗ كَانَ فِيْٓ اَهْلِهٖ مَسْرُوْرًاۗ١٣
Innahū kāna fī ahlihī masrūrā(n).
[13] 実に彼は、(自分の行く末も考えず、)自分の家族のもとで喜々としていたのだから。

اِنَّهٗ ظَنَّ اَنْ لَّنْ يَّحُوْرَ ۛ١٤
Innahū ẓanna allay yaḥūr(a).
[14] 実に彼らは、(清算のために創造主のもとへ)戻ることなどあるまい、と考えていたのだ。

بَلٰىۛ اِنَّ رَبَّهٗ كَانَ بِهٖ بَصِيْرًاۗ١٥
Balā, inna rabbahū kāna bihī baṣīrā(n).
[15] いや、(彼は蘇らされ、行いの報いを受ける、)本当にかれの主*はもとより、彼のことをよくご覧になるお方であったのだ。

فَلَآ اُقْسِمُ بِالشَّفَقِۙ١٦
Falā uqsimu bisy-syafaq(i).
[16] われはまさに、夕焼けにかけて誓う。¹
1 アーヤ*16-18の、アッラー*によるこの誓いについては、整列者章1の訳注を参照。

وَالَّيْلِ وَمَا وَسَقَۙ١٧
Wal-laili wa mā wasaq(a).
[17] また、夜と、それが集めたもの¹にかけて、
1 「夜が集めたもの」とは、昼間に活動する鳥類や動物を始め、夜に安らぎ、静かになる、全ての創造物のことを指すとされる(アル=カースィミー17:6110参照)。

وَالْقَمَرِ اِذَا اتَّسَقَۙ١٨
Wal-qamari iżattasaq(a).
[18] また、(その光と形が)満ちた月にかけて(誓う)。

لَتَرْكَبُنَّ طَبَقًا عَنْ طَبَقٍۗ١٩
Latarkabunna ṭabaqan ‘an ṭabaq(in).
[19] (人々よ、)あなた方は必ずや、ある段階から(別の)段階へと、乗り次いで(移転して)行くのである。¹
1 精液、凝血、肉塊、魂が吹き込まれた状態、死、復活、という段階のこと(ムヤッサル589頁参照)。巡礼*章5、信仰者たち章13-16も参照。また、「復活の日*の厳しい状況の変化」「過去の不信仰な民*の宗教へと逆行すること」「順境と逆境、貧富、健康状態などの変化」「現世から来世への移行」といった解釈もある(アル=クルトゥビー19:278-280参照)。

فَمَا لَهُمْ لَا يُؤْمِنُوْنَۙ٢٠
Famā lahum lā yu'minūn(a).
[20] では、彼らが(アッラー*と最後の日*を)信じないのは、どうしたわけか?

وَاِذَا قُرِئَ عَلَيْهِمُ الْقُرْاٰنُ لَا يَسْجُدُوْنَ ۗ ۩٢١
Wa iżā quri'a ‘alaihimul-qur'ānu lā yasjudūn(a).
[21] そして、彼らに対してクルアーン*が誦まれても、彼らがサジダ*しないのは?(読誦のサジダ*)

بَلِ الَّذِيْنَ كَفَرُوْا يُكَذِّبُوْنَۖ٢٢
Balil-lażīna kafarū yukażżibūn(a).
[22] いや、不信仰に陥った者*たちは、(真実を)噓呼ばわりしている。

وَاللّٰهُ اَعْلَمُ بِمَا يُوْعُوْنَۖ٢٣
Wallāhu a‘lamu bimā yū‘ūn(a).
[23] アッラー*は、彼らが(胸の内に)包み隠していること¹を、最もよくご存知なのに。
1 つまり、クルアーン*が真実であることを知っていながら、それを頑迷(がんめい)に拒んでいること(ムヤッサル589頁参照)。

فَبَشِّرْهُمْ بِعَذَابٍ اَلِيْمٍۙ٢٤
Fa basysyirhum bi‘ażābin alīm(in).
[24] ならば、彼らに痛ましい懲罰の吉報を告げよ。¹
1 「・・・懲罰の吉報を告げよ」については、イムラーン家章21の訳注を参照。

اِلَّا الَّذِيْنَ اٰمَنُوْا وَعَمِلُوا الصّٰلِحٰتِ لَهُمْ اَجْرٌ غَيْرُ مَمْنُوْنٍ ࣖ٢٥
Illal-lażīna āmanū wa ‘amiluṣ-ṣāliḥāti lahum ajrun gairu mamnūn(in).
[25] 但し、信仰して正しい行い*を行う者たちは、別である。彼らには(来世で)、尽きることのない褒美¹があるのだ。
1 「尽きることのない褒美」については、詳細にされた章8の訳注を参照。