Surah `Abasa
بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ
عَبَسَ وَتَوَلّٰىٓۙ١
‘Abasa wa tawallā.
[1]
眉をひそめて、背を向けた、
اَنْ جَاۤءَهُ الْاَعْمٰىۗ٢
An jā'ahul-a‘mā.
[2]
自分のもとに、盲目の者が来たために。¹
1 アッ=ラーズィー* によれば、解釈学者らは、このアーヤ*が預言者*ムハンマド*と教友*イブン・ウンム・マクトゥームに関して下ったということで、一致している(11:53参照)。預言者*はある時、クライシュ族*の有力者らがムスリム*になることを望み、彼らをイスラーム*へと熱心に招いていた。そのような場にやって来た盲目のイブン・ウンム・マクトゥーム*の教えを彼にしつこくせがんでしまう。預言者*は話を邪魔されるのを嫌い、彼を相手にせず、有力者たちへの話に勤しんだ。このアーヤ*が下ってそのことを咎められた後、預言者*は彼を大事に扱い、重用するようになった(アル=バガウィー5:210参照)。尚、預言者*・使徒*の無謬(むびゅう)性については、雌牛章36の訳注を参照。
وَمَا يُدْرِيْكَ لَعَلَّهٗ يَزَّكّٰىٓۙ٣
Wa mā yudrīka la‘allahū yazzakkā.
[3]
そして、何があなたに(彼の真実を)知らせるのか?彼が清められる¹かもしれない、ということを?
1 ここでの「清められる」とは、預言者*からの教えを得ることで、自らの宗教においてより清浄となり、無知という闇が消えさること、とされる(アル=クルトゥビー19:213参照)。
اَوْ يَذَّكَّرُ فَتَنْفَعَهُ الذِّكْرٰىۗ٤
Au yażżakkaru fatanfa‘ahuż-żikrā.
[4]
あるいは、彼が教訓を受け、それで教訓が彼を益するかもしれないことを?
اَمَّا مَنِ اسْتَغْنٰىۙ٥
Ammā manistagnā.
[5]
(導きなしでも)十分だとする者¹はといえば、
1 これは善への意欲がないため、質問も教示も請うこともないようなもののこと(アッ=サアディー910頁参照)。
فَاَنْتَ لَهٗ تَصَدّٰىۗ٦
Fa anta lahū taṣaddā.
[6]
あなたは彼に掛かりきり。
وَمَا عَلَيْكَ اَلَّا يَزَّكّٰىۗ٧
Wa mā ‘alaika allā yazzakkā.
[7]
彼が清められずとも、あなたには何のお咎めもないというのに。
وَاَمَّا مَنْ جَاۤءَكَ يَسْعٰىۙ٨
Wa ammā man jā'aka yas‘ā.
[8]
そして(あなたと会うことに)意気込んで、あなたのもとにやって来た者はといえば、
وَهُوَ يَخْشٰىۙ٩
Wa huwa yakhsyā.
[9]
(アッラー*を)恐れているというのに、
فَاَنْتَ عَنْهُ تَلَهّٰىۚ١٠
Fa anta ‘anhu talahhā.
[10]
あなたは彼をそっちのけにしている。
كَلَّآ اِنَّهَا تَذْكِرَةٌ ۚ١١
Kallā innahā tażkirah(tun).
[11]
断じて(、使徒*よ、あなたがしたようなことは、許され)ない!実にそれ(このスーラ*)は、教訓なのだ。
فَمَنْ شَاۤءَ ذَكَرَهٗ ۘ١٢
Faman syā'a żakarah(ū).
[12]
そして誰でも(教訓を)望む者は、それ(啓示)を熟慮せよ。
فِيْ صُحُفٍ مُّكَرَّمَةٍۙ١٣
Fī ṣuḥufim mukarrmah(tin).
[13]
(このクルアーン*は)貴い書巻¹の中、
1 「貴い書巻」とは、守られし碑板*、あるいは啓典のこと(アル=バガウィー5:210参照)。
مَّرْفُوْعَةٍ مُّطَهَّرَةٍ ۢ ۙ١٤
Marfū‘atim muṭahharah(tin).
[14]
(位)高く、(あらゆる不純さや改変から)清浄な(書巻の中)、
بِاَيْدِيْ سَفَرَةٍۙ١٥
Bi'aidī safarah(tin).
[15]
使いの者(天使*)たちの手許にある。
كِرَامٍۢ بَرَرَةٍۗ١٦
Kirāmim bararah(tin).
[16]
高貴で、善良な者たちの(手許に)。
قُتِلَ الْاِنْسَانُ مَآ اَكْفَرَهٗۗ١٧
Qutilal-insānu mā akfarah(ū).
[17]
(不信仰な)人間が、成敗されますよう。彼は(自分の主*に対し)、何とひどい不信仰に陥っていることか!
مِنْ اَيِّ شَيْءٍ خَلَقَهٗۗ١٨
Min ayyi syai'in khalaqah(ū).
[18]
かれ(アッラー*)は彼を、いかなるものからお創りになったのか?
مِنْ نُّطْفَةٍۗ خَلَقَهٗ فَقَدَّرَهٗۗ١٩
Min nuṭfah(tin), khalaqahū fa qaddarah(ū).
[19]
一滴の精液から彼をお創りになり、それを(徐々に)調整されたのだ。¹
1 「その各身体器官、美醜(びしゅう)、大小、不幸な者となるか、幸福なものとなるか、ということなどをお決めになった」という解釈もある(アル=クルトゥビー19:218参照)。尚、人間の創造の変遷(へんせん)については、巡礼*章5、信仰者たち章14を参照。
ثُمَّ السَّبِيْلَ يَسَّرَهٗۙ٢٠
Ṡummas-sabīla yassarah(ū).
[20]
それからかれ(アッラー*)は、道を容易くされ、¹
1 この「道」には、「母親の胎内から出て来ること」「真理と虚偽の道、及びその判別(人間章3とその訳注も参照)」「各自が運命づけられた物事」といった解釈がある(アル=バガウィー5:211参照)。
ثُمَّ اَمَاتَهٗ فَاَقْبَرَهٗۙ٢١
Ṡumma amātahū fa aqbarah(ū).
[21]
やがては彼に死を与えられ、墓にお埋めになり、
ثُمَّ اِذَا شَاۤءَ اَنْشَرَهٗۗ٢٢
Ṡumma iżā syā'a ansyarah(ū).
[22]
それから、かれがお望みになったら、(清算と報いのために、)彼を生き返させ給う。
كَلَّا لَمَّا يَقْضِ مَآ اَمَرَهٗۗ٢٣
Kallā lammā yaqḍi mā amarah(ū).
[23]
断じて(、不信仰者*の状況は正しく)ない!彼は、かれ(アッラー*)が自分にご命じになったこと¹を、遂行してはないないのだから。
1 つまり信仰と、かれへの服従ということ(ムヤッサル585頁参照)。
فَلْيَنْظُرِ الْاِنْسَانُ اِلٰى طَعَامِهٖٓ ۙ٢٤
Falyanẓuril-insānu ilā ṭa‘āmih(ī).
[24]
ならば人間に、自分の食べ物(が、いかに創造されたか)について考えさせてみよ。
اَنَّا صَبَبْنَا الْمَاۤءَ صَبًّاۙ٢٥
Annā ṣababnal-mā'a ṣabbā(n).
[25]
われら*は、(地上に)水をざあざあと降らせ、
ثُمَّ شَقَقْنَا الْاَرْضَ شَقًّاۙ٢٦
Ṡumma syaqaqnal-arḍa syaqqā(n).
[26]
それから大地を、ひび割れさせ(、そこから各種の植物を芽出せさせ)たのだ。
فَاَنْۢبَتْنَا فِيْهَا حَبًّاۙ٢٧
Fa'ambatnā fīhā ḥabbā(n).
[27]
そして、われら*はそこに種粒を生育させた、
وَّعِنَبًا وَّقَضْبًاۙ٢٨
Wa ‘inabaw wa qaḍbā(n).
[28]
また、葡萄、まぐさ、
وَّزَيْتُوْنًا وَّنَخْلًاۙ٢٩
Wa zaitūnaw wa nakhlā(n).
[29]
オリーブ、ナツメヤシ、
وَّحَدَاۤىِٕقَ غُلْبًا٣٠
Wa ḥadā'iqa gulbā(n).
[30]
木深い農園、
وَفَاكِهَةً وَّاَبًّا٣١
Wa fākihataw wa abbā(n).
[31]
果実、牧草も(生育させた)、
مَتَاعًا لَّكُمْ وَلِاَنْعَامِكُمْۗ٣٢
Matā‘al lakum wa li'an‘āmikum.
[32]
あなた方と、あなた方の家畜の利益のために。
فَاِذَا جَاۤءَتِ الصَّاۤخَّةُ ۖ٣٣
Fa iżā jā'atiṣ-ṣākhkhah(tu).
[33]
そして、(復活の日*を知らせる)轟きの一声¹が到来した時(、人々は自分の事で、掛かりきりになる)。
1 「轟きの一声」は、一説に、角笛が吹き鳴らされること(アル=バイダーウィー5:454参照)。家畜章73とその訳注も参照。
يَوْمَ يَفِرُّ الْمَرْءُ مِنْ اَخِيْهِۙ٣٤
Yauma yafirrul-mar'u min akhīh(i).
[34]
人間が、(その恐怖ゆえに、)自分の兄弟から逃げ出す日、
وَاُمِّهٖ وَاَبِيْهِۙ٣٥
Wa ummihī wa abīh(i).
[35]
また、自分の母親、父親、
وَصَاحِبَتِهٖ وَبَنِيْهِۗ٣٦
Wa ṣāḥibatihī wa banīh(i).
[36]
自分の妻、子供たち(から逃げ出す日)。
لِكُلِّ امْرِئٍ مِّنْهُمْ يَوْمَىِٕذٍ شَأْنٌ يُّغْنِيْهِۗ٣٧
Likullimri'im minhum yauma'iżin sya'nuy yugnīh(i).
[37]
彼ら全員にはその日、自分のことだけで精一杯な用事がある。
وُجُوْهٌ يَّوْمَىِٕذٍ مُّسْفِرَةٌۙ٣٨
Wujūhuy yauma'iżim musfirah(tun).
[38]
その日、(天国に入る)顔の数々は輝いており、
ضَاحِكَةٌ مُّسْتَبْشِرَةٌ ۚ٣٩
Ḍāḥikatum mustabsyirah(tun).
[39]
笑い、心躍らせている。
وَوُجُوْهٌ يَّوْمَىِٕذٍ عَلَيْهَا غَبَرَةٌۙ٤٠
Wa wujūhuy yauma'iżin ‘alaihā gabarah(tun).
[40]
またその日、(地獄に入る)顔の数々は、その上に煤がかか(って真っ黒にな)る。
تَرْهَقُهَا قَتَرَةٌ ۗ٤١
Tarhaquhā qatarah(tun).
[41]
埃がそれらを覆(い、辱めにあ)う。
اُولٰۤىِٕكَ هُمُ الْكَفَرَةُ الْفَجَرَةُ ࣖ٤٢
Ulā'ika humul-kafaratul-fajarah(tu).
[42]
それらの者たちこそは、不信仰者*、放逸な者たちである。