Surah Al-Insan
بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ
هَلْ اَتٰى عَلَى الْاِنْسَانِ حِيْنٌ مِّنَ الدَّهْرِ لَمْ يَكُنْ شَيْـًٔا مَّذْكُوْرًا١
Hal atāka ‘alal-insāni ḥīnum minad-dahri lam yakun syai'am mażkūrā(n).
[1]
人間には(そこに魂を吹き込まれる以前)、言及すべき何ものでもなかった長い一時期が、確かに訪れたではないか?¹
1 人は以前、根源的物質や液体といった、人間としての特性がない、取るに足らない存在だった(アル=バイダーウィー5:425参照)。
اِنَّا خَلَقْنَا الْاِنْسَانَ مِنْ نُّطْفَةٍ اَمْشَاجٍۖ نَّبْتَلِيْهِ فَجَعَلْنٰهُ سَمِيْعًاۢ بَصِيْرًا٢
Innā khalaqnal-insāna min nuṭfatin amsyājin nabtalīhi fa ja‘alnāhu samī‘am baṣīrā(n).
[2]
本当にわれら*は人間を、(男女の精液が)混じり合った、一滴の精液から創造した。われら*は彼を(その後、宗教的な義務によって)試練にかけるのだ¹。われら*は彼を聞き、見る者とした。
1 蜘蛛章2、および王権章2「試練」の訳注も参照。
اِنَّا هَدَيْنٰهُ السَّبِيْلَ اِمَّا شَاكِرًا وَّاِمَّا كَفُوْرًا٣
Innā hadaināhus-sabīla immā syākiraw wa immā kafūrā(n).
[3]
本当にわれら*は彼を、道¹へと導いた。感謝する者か、あるいは大層な恩知らずか(となるべく)。
1 正しい導きと迷い、善と悪という「道」(ムヤッサル578頁参照)。
اِنَّآ اَعْتَدْنَا لِلْكٰفِرِيْنَ سَلٰسِلَا۟ وَاَغْلٰلًا وَّسَعِيْرًا٤
Innā a‘tadnā lil-kāfirīna salāsila wa aglālaw wa sa‘īrā(n).
[4]
本当にわれら*は不信仰者*たちに、鎖と枷と(地獄の)烈火を用意した。
اِنَّ الْاَبْرَارَ يَشْرَبُوْنَ مِنْ كَأْسٍ كَانَ مِزَاجُهَا كَافُوْرًاۚ٥
Innal-abrāra yasyrabūna min ka'sin kāna mizājuhā kāfūrā(n).
[5]
実に(アッラー*への義務を果たす)善行者たちは(復活の日*)、その混ぜ物が樟脳である(酒の)盃から飲む。¹
1 天国の民の飲み物については、アーヤ*17-18、21、サード章51、整列者章45ー47、詳細にされた章31、ムハンマド*章15、出来事章17-19、消息章34、量を減らす者たち章25-28も参照。
عَيْنًا يَّشْرَبُ بِهَا عِبَادُ اللّٰهِ يُفَجِّرُوْنَهَا تَفْجِيْرًا٦
‘Ainay yasyrabu bihā ‘ibādullāhi yufajjirūnahā tafjīrā(n).
[6]
つまり、アッラー*の僕たちが(思うがまま)容易に噴き出させつつ飲む、泉である。
يُوْفُوْنَ بِالنَّذْرِ وَيَخَافُوْنَ يَوْمًا كَانَ شَرُّهٗ مُسْتَطِيْرًا٧
Yūfūna bin-nażri wa yakhāfūna yauman kāna syarruhū mustaṭīrā(n).
[7]
彼ら(善行者たち)は(現世で)誓約を全うし、(アッラー*がご慈悲をおかけになった者を除く全ての者に)その悪が拡散する(復活の)日を怖れ、
وَيُطْعِمُوْنَ الطَّعَامَ عَلٰى حُبِّهٖ مِسْكِيْنًا وَّيَتِيْمًا وَّاَسِيْرًا٨
Wa yuṭ‘imūnaṭ-ṭa‘āma ‘alā ḥubbihī miskīnaw wa yatīmaw wa asīrā(n).
[8]
自らの(それに対する)愛着にも関わらず、貧弱*、孤児、捕虜に食べ物を食べさせるのだから。
اِنَّمَا نُطْعِمُكُمْ لِوَجْهِ اللّٰهِ لَا نُرِيْدُ مِنْكُمْ جَزَاۤءً وَّلَا شُكُوْرًا٩
Innamā nuṭ‘imukum liwajhillāhi lā nurīdu minkum jazā'aw wa lā syukūrā(n).
[9]
(彼らは心中で、こう言うのだ。)「私たちがあなた方に食べさせるのは、アッラー*の御顔ゆえに外ならない。私たちはあなた方から、見返りも感謝もいらない。
اِنَّا نَخَافُ مِنْ رَّبِّنَا يَوْمًا عَبُوْسًا قَمْطَرِيْرًا١٠
Innā nakhāfu mir rabbinā yauman ‘abūsan qamṭarīrā(n).
[10]
本当に私たちは、眉をしかめる凄まじい日の、我らが主*を怖れているのだから」。
فَوَقٰىهُمُ اللّٰهُ شَرَّ ذٰلِكَ الْيَوْمِ وَلَقّٰىهُمْ نَضْرَةً وَّسُرُوْرًاۚ١١
Fa waqāhumullāhu syarra żālikal-yaumi wa laqqāhum naḍrataw wa surūrā(n).
[11]
それでアッラー*は、その日の悪から彼らをお守りになり、彼らに(顔の)輝きと(心の)喜びをお授けになった。
وَجَزٰىهُمْ بِمَا صَبَرُوْا جَنَّةً وَّحَرِيْرًاۙ١٢
Wa jazāhum bimā ṣabarū jannataw wa ḥarīrā(n).
[12]
そして彼らが(現世で)忍耐*したことゆえに、彼らを楽園と絹(の衣服¹)でお報いになった。
1 天国の民の衣服については、アーヤ*21、洞窟章31、巡礼*章23、創成者*章33、煙霧章51ー53も参照。
مُّتَّكِـِٕيْنَ فِيْهَا عَلَى الْاَرَاۤىِٕكِۚ لَا يَرَوْنَ فِيْهَا شَمْسًا وَّلَا زَمْهَرِيْرًاۚ١٣
Muttaki'īna fīhā ‘alal-arā'ik(i), lā yarauna fīhā syamsaw wa lā zamharīrā(n).
[13]
彼らはそこで、寝台に寄りかかっている。彼らはそこで、太陽(の灼熱)も酷寒も見出すことがない。
وَدَانِيَةً عَلَيْهِمْ ظِلٰلُهَا وَذُلِّلَتْ قُطُوْفُهَا تَذْلِيْلًا١٤
Wa dāniyatan ‘alaihim ẓilāluhā wa żullilat quṭūfuhā tażlīlā(n).
[14]
また、彼らの上には(、楽園の木々の)その陰が間近に(覆いかぶさって)あり、その果実の房は(手近に)低く垂れ下げられている。
وَيُطَافُ عَلَيْهِمْ بِاٰنِيَةٍ مِّنْ فِضَّةٍ وَّاَكْوَابٍ كَانَتْ قَوَارِيْرَا۠١٥
Wa yuṭāfu ‘alaihim bi'āniyatim min fiḍḍatiw wa akwābin kānat qawārīrā.
[15]
また彼らには、銀の食器と硝子の杯と共に(奉仕する少年たちが)回らせられる。
قَوَارِيْرَا۟ مِنْ فِضَّةٍ قَدَّرُوْهَا تَقْدِيْرًا١٦
Qawārīra min fiḍḍatin qaddarūhā taqdīrā(n).
[16]
彼らがちょうどいい分量に合わせた、銀製の硝子¹(の杯と共に)。
1 つまり、その杯は銀製にも関わらず、がらすの透明さを備えている(アル=クルトゥビー19:140参照)。
وَيُسْقَوْنَ فِيْهَا كَأْسًا كَانَ مِزَاجُهَا زَنْجَبِيْلًاۚ١٧
Wa yusqauna fīhā ka'san kāna mizājuhā zanjabīlā(n).
[17]
また彼らはそこで、その混ぜ物が生姜である(酒の)盃を飲まされる。
عَيْنًا فِيْهَا تُسَمّٰى سَلْسَبِيْلًا١٨
‘Ainan fīhā tusammā salsabīlā(n).
[18]
つまりサルサビール¹と呼ばれる、そこ(楽園)にある泉の(生姜²である)。
1 「サルサビール」とは、「サラサ(滑らかである)」という語から派生していると言われるように、飲む者の喉にも、その流れる状態も滑らかであり、天国の民はそれをどこにでも好きなように操(あやつ)ることが出来る(アッ=タバリー10:8376参照)。 2 つまり、その泉につけられた生姜である。あるいは生姜から抽出(ちゅうしゅつ)された液体が、泉のように豊富である(イブン・アーシュール29:395参照)。また、天国の民の飲み物については、アーヤ*5、21、サード章51、整列者章45-47、詳細にされた章31、ムハンマド*章15、出来事章17-19、消息章34、量を減らす者たち章25-28も参照。
۞ وَيَطُوْفُ عَلَيْهِمْ وِلْدَانٌ مُّخَلَّدُوْنَۚ اِذَا رَاَيْتَهُمْ حَسِبْتَهُمْ لُؤْلُؤًا مَّنْثُوْرًا١٩
Wa yaṭūfu ‘alaihim wildānum mukhalladūn(a), iżā ra'aitahum ḥasibtahum lu'lu'am manṡūrā(n).
[19]
また、永遠の少年たちが、彼らの周りを(奉仕のために)回って歩く。もしあなたが彼らを見れば、彼らを散りばめられた真珠かと思ったであろう。
وَاِذَا رَاَيْتَ ثَمَّ رَاَيْتَ نَعِيْمًا وَّمُلْكًا كَبِيْرًا٢٠
Wa iżā ra'aita ṡamma ra'aita na‘īmaw wa mulkan kabīrā(n).
[20]
そして、あなたがそこで(天国のいかなる場所でも)見れば、安楽と、大いなる王国を目にしたことであろう。
عٰلِيَهُمْ ثِيَابُ سُنْدُسٍ خُضْرٌ وَّاِسْتَبْرَقٌۖ وَّحُلُّوْٓا اَسَاوِرَ مِنْ فِضَّةٍۚ وَسَقٰىهُمْ رَبُّهُمْ شَرَابًا طَهُوْرًا٢١
‘Āliyahum ṡiyābu sundusin khuḍruw wa istabraq(un), wa ḥullū asāwira min fiḍḍah(tin), wa saqāhum rabbuhum syarāban ṭahūrā(n).
[21]
彼らの上には、緑色の精巧な絹地と重厚な絹地の衣服。そして銀製の腕輪で飾り立てられ¹、彼らの主*は彼らに清い水を飲ませて下さる。
1 天国の民の衣服については、アーヤ*21、洞窟章31、巡礼*章23、創成者*章33、煙霧章51ー53も参照。
اِنَّ هٰذَا كَانَ لَكُمْ جَزَاۤءً وَّكَانَ سَعْيُكُمْ مَّشْكُوْرًا ࣖ٢٢
Inna hāżā kāna lakum jazā'aw wa kāna sa‘yukum masykūrā(n).
[22]
(彼らには、こう言われる。)「本当にこれはもとより、あなた方への(正しい行い*の)報いである。そして、あなた方の(現世での)努力は、(アッラー*の御許で)労われる¹ことになっていたのだ」。
1 頻出名・用語解説の「よく労(ねぎら)われる*お方」の項も参照。
اِنَّا نَحْنُ نَزَّلْنَا عَلَيْكَ الْقُرْاٰنَ تَنْزِيْلًاۚ٢٣
Innā naḥnu nazzalnā ‘alaikal-qur'āna tanzīlā(n).
[23]
(使徒*よ、)本当にわれら*はあなたに、クルアーン*を徐々に下した¹。
1 「徐々に下した」に関しては、夜の旅章106、識別章32とそれらの訳注も参照。
فَاصْبِرْ لِحُكْمِ رَبِّكَ وَلَا تُطِعْ مِنْهُمْ اٰثِمًا اَوْ كَفُوْرًاۚ٢٤
Faṣbir liḥukmi rabbika wa lā tuṭi‘ minhum āṡiman au kafūrā(n).
[24]
ならば、あなたの主*のお決めになったことゆえに忍耐*し、彼ら(シルク*の徒)の内の罪に溺れた者にも、不信仰この上ない者にも、従うのではない。
وَاذْكُرِ اسْمَ رَبِّكَ بُكْرَةً وَّاَصِيْلًاۚ٢٥
Ważkurisma rabbika bukrataw wa aṣīlā(n).
[25]
また、あなたの主*を朝に夕に念じ、
وَمِنَ الَّيْلِ فَاسْجُدْ لَهٗ وَسَبِّحْهُ لَيْلًا طَوِيْلًا٢٦
Wa minal-laili fasjud lahū wa sabbiḥhu lailan ṭawīlā(n).
[26]
夜の一部にはかれにサジダ*し、かれを夜長く称える*¹のだ。
1 これはタハッジュド(夜の旅章79の訳注を参照)のことを指す、とされる(ムヤッサル580頁参照)。
اِنَّ هٰٓؤُلَاۤءِ يُحِبُّوْنَ الْعَاجِلَةَ وَيَذَرُوْنَ وَرَاۤءَهُمْ يَوْمًا ثَقِيْلًا٢٧
Inna hā'ulā'i yuḥibbūnal-‘ājilata wa yażarūna warā'ahum yauman ṡaqīlā(n)
[27]
本当にこれらの者たち(シルク*の徒)は、手っ取り早いもの¹を愛し、自分たちの背後に(復活の日*という)重大な日(のための行い)を、放ったらかしにしている²。
1 「手っ取り早いもの」については、復活章20-21とその訳注も参照。 2 「自分たちの前方にある復活の日*への信仰を、放ったらかしにしている」という解釈もある(アル=クルトゥビー19:151参照)。
نَحْنُ خَلَقْنٰهُمْ وَشَدَدْنَآ اَسْرَهُمْۚ وَاِذَا شِئْنَا بَدَّلْنَآ اَمْثَالَهُمْ تَبْدِيْلًا٢٨
Naḥnu khalaqnāhum wa syadadnā asrahum, wa iżā syi'nā baddalnā amṡālahum tabdīlā(n).
[28]
われら*が彼らを創り、その繋ぎ目を堅固にしたのだ¹。そして、もしわれら*が望んだなら(彼らを)、彼らと似た者たち(だが、われら*に従順な者たち)とすっかり取り替えてしまったであろう。²
1 骨や神経や血管で、身体の各部をしっかりと繋ぎ止めたということ(イブン・アーシュール29:409参照)。 2 彼らの姿形を、醜いものに変えてしまっただろう、という解釈もある(アル=クルトゥビー19:152参照)。
اِنَّ هٰذِهٖ تَذْكِرَةٌ ۚ فَمَنْ شَاۤءَ اتَّخَذَ اِلٰى رَبِّهٖ سَبِيْلًا٢٩
Inna hāżihī tażkirah(tun), faman syā'attakhaża ilā rabbihī sabīlā(n).
[29]
本当にこれ(このスーラ*)は、教訓。そして、誰でも(それによる教訓を)望む者には、(信仰心と敬虔*さによって)自らの主*(のご満悦)へと道を取らせよ。
وَمَا تَشَاۤءُوْنَ اِلَّآ اَنْ يَّشَاۤءَ اللّٰهُ ۗاِنَّ اللّٰهَ كَانَ عَلِيْمًا حَكِيْمًاۖ٣٠
Wa mā tasyā'ūna illā ay yasyā'allāh(u), innallāha kāna ‘alīman ḥakīmā(n).
[30]
そしてあなた方は、アッラー*がお望みにならない限り、(いかなることも)望むことがない¹。本当にアッラー*は、もとより全知者、英知あふれる*お方であられるのだから。
1 包る者章56の、同様の件(くだり)の訳注も参照。
يُّدْخِلُ مَنْ يَّشَاۤءُ فِيْ رَحْمَتِهٖۗ وَالظّٰلِمِيْنَ اَعَدَّ لَهُمْ عَذَابًا اَلِيْمًا ࣖ٣١
Yudkhilu may yasyā'u fī raḥmatih(ī), waẓ-ẓālimīna a‘adda lahum ‘ażāban alīmā(n).
[31]
かれは、かれがお望みになる(信仰)者を、そのご慈悲の中にお入れになる。そして不正*者たち、彼らには痛ましい懲罰を用意されたのだ。