Surah Al-Mulk

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بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ
تَبٰرَكَ الَّذِيْ بِيَدِهِ الْمُلْكُۖ وَهُوَ عَلٰى كُلِّ شَيْءٍ قَدِيْرٌۙ١
Tabārakal-lażī biyadihil-mulk(u), wa huwa ‘alā kulli syai'in qadīr(un).
[1] その御手にこそ(全創造の)王権があるお方(アッラー*)は、祝福にあふれておられる。そしてかれは、全てのことがお出来になられるお方。

ۨالَّذِيْ خَلَقَ الْمَوْتَ وَالْحَيٰوةَ لِيَبْلُوَكُمْ اَيُّكُمْ اَحْسَنُ عَمَلًاۗ وَهُوَ الْعَزِيْزُ الْغَفُوْرُۙ٢
Allażī khalaqal-mauta wal-ḥayāta liyabluwakum ayyukum aḥsanu ‘amalā(n), wa huwal-‘azīzul-gafūr(u).
[2] (人々よ、かれは)あなた方のいずれがより善い行いかを試されるべく¹、死と生をお創りになったお方。かれは偉力ならびない*お方、赦し深いお方であられる。
1 「より善い行い」とは、より(アッラー*に)純化され(婦人章146の訳注も参照)、より(スンナ*に則った)正しい行い*のこと。アッラー*は人間をこの世界に置かれ、彼らがいずれそこから立ち去る身であることをお知らせになった上で、彼らに命令や禁止をされ、それに逆行する私欲によって彼らを試練にかけられた。それでアッラー*のご命令に従い、善き行いに努めた者は、現世と来世における褒美を授かる。しかしそうでなかった場合、その報いは悪いものとなる(アッ=サアディー875頁参照)。イムラーン家章179、蜘蛛章2及びムハンマド*章31とその訳注も参照。

الَّذِيْ خَلَقَ سَبْعَ سَمٰوٰتٍ طِبَاقًاۗ مَا تَرٰى فِيْ خَلْقِ الرَّحْمٰنِ مِنْ تَفٰوُتٍۗ فَارْجِعِ الْبَصَرَۙ هَلْ تَرٰى مِنْ فُطُوْرٍ٣
Allażī khalaqa sab‘a samāwātin ṭibāqā(n), mā tarā fī khalqir-raḥmāni min tafāwut(in), farji‘il-baṣara hal tarā min fuṭūr(in).
[3] (かれは)組み合わさった¹七層の天を、お創りになったお方。(それを見る者よ、)あなたは慈悲あまねき*お方(アッラー*)の創造に、いかなる不調和も見出さない。では、視線を(天へと)戻してみるがよい。一体あなたは(そこに)、少しでも亀裂を見出すのか?
1 一説には、「(階層的に)重なり合った」という意味(アル=クルトゥビー18:208参照)。

ثُمَّ ارْجِعِ الْبَصَرَ كَرَّتَيْنِ يَنْقَلِبْ اِلَيْكَ الْبَصَرُ خَاسِئًا وَّهُوَ حَسِيْرٌ٤
Ṡummarji‘il-baṣara karrataini yanqalib ilaikal-baṣaru khāsi'aw wa huwa ḥasīr(un).
[4] それから何度も、視線を戻してみるがよい。(そうすれば、)視線は惨めにも疲れ切って、自らのもとに返って来よう。

وَلَقَدْ زَيَّنَّا السَّمَاۤءَ الدُّنْيَا بِمَصَابِيْحَ وَجَعَلْنٰهَا رُجُوْمًا لِّلشَّيٰطِيْنِ وَاَعْتَدْنَا لَهُمْ عَذَابَ السَّعِيْرِ٥
Wa laqad zayyannas-samā'ad-dun-yā bimaṣābīḥa wa ja‘alnāhā rujūmal lisy-syayāṭīni wa a‘tadnā lahum ‘ażābas-sa‘īr(i).
[5] われら*は確かに最下層の天を(星)灯りで飾りつけ、それをシャイターン*らへの射撃とした¹。そしてわれら*は彼らに、烈火の懲罰を用意したのだ。
1 アル=ヒジュル章17-18とその訳注、詩人たち章212、223、整列者章6-10、ジン*章8-9も参照。

وَلِلَّذِيْنَ كَفَرُوْا بِرَبِّهِمْ عَذَابُ جَهَنَّمَۗ وَبِئْسَ الْمَصِيْرُ٦
Wa lil-lażīna kafarū birabbihim ‘ażābu jahannam(a), wa bi'sal-maṣīr(u).
[6] 自分たちの主*に対して不信仰だった者*たちには、地獄の懲罰がある。その行き先は、何と醜悪なことであろうか。

اِذَآ اُلْقُوْا فِيْهَا سَمِعُوْا لَهَا شَهِيْقًا وَّهِيَ تَفُوْرُۙ٧
Iżā ulqū fīhā sami‘ū lahā syahīqaw wa hiya tafūr(u).
[7] 彼ら(不信仰者*)はその中に放り込まれた時、いきり立った(業火の)その咆哮を聞く。

تَكَادُ تَمَيَّزُ مِنَ الْغَيْظِۗ كُلَّمَآ اُلْقِيَ فِيْهَا فَوْجٌ سَاَلَهُمْ خَزَنَتُهَآ اَلَمْ يَأْتِكُمْ نَذِيْرٌۙ٨
Takādu tamayyazu minal-gaiẓ(i), kullamā ulqiya fīhā faujun sa'alahum khazanatuhā alam ya'tikum nażīr(un).
[8] それは(不信仰者*への憤りゆえ)、張り裂けんばかり。そこに集団が放り込まれるたび、その門番たちは彼らに尋ねる。「あなた方には(現世で、あなた方が今味わっている懲罰を警告する)、警告者が到来しなかったのか?」

قَالُوْا بَلٰى قَدْ جَاۤءَنَا نَذِيْرٌ ەۙ فَكَذَّبْنَا وَقُلْنَا مَا نَزَّلَ اللّٰهُ مِنْ شَيْءٍۖ اِنْ اَنْتُمْ اِلَّا فِيْ ضَلٰلٍ كَبِيْرٍ٩
Qālū balā qad jā'anā nażīr(un), fa każżabnā wa qulnā mā nazzalallāhu min syai'(in), in antum illā fī ḍalālin kabīr(in).
[9] 彼らは(、応えて)言う。「ええ、確かに警告者は、私たちのところに来ました。けれども私たちは(彼を)噓つき呼ばわりし、(こう)言ったのです。『アッラー*は(あなた方に啓示を)何一つ、下されてなどいない。あなた方(使徒*たち)は、大きな迷いの中にあるに過ぎないのだ』」。

وَقَالُوْا لَوْ كُنَّا نَسْمَعُ اَوْ نَعْقِلُ مَا كُنَّا فِيْٓ اَصْحٰبِ السَّعِيْرِ١٠
Wa qālū lau kunnā nasma‘u au na‘qilu mā kunnā fī aṣḥābis-sa‘īr(i).
[10] また、彼らは言う。「もし私たちが(真理を求めて)聴き、弁えていたら、烈火の徒とはなっていなかったのに」。

فَاعْتَرَفُوْا بِذَنْۢبِهِمْۚ فَسُحْقًا لِّاَصْحٰبِ السَّعِيْرِ١١
Fa‘tarafū biżambihim, fasuḥqal li'aṣḥābis-sa‘īr(i).
[11] こうして彼らは自分たちの罪を、認める。ゆえに烈火の徒が、(アッラー*のご慈悲から)遠ざけられるよう。

اِنَّ الَّذِيْنَ يَخْشَوْنَ رَبَّهُمْ بِالْغَيْبِ لَهُمْ مَّغْفِرَةٌ وَّاَجْرٌ كَبِيْرٌ١٢
Innal-lażīna yakhsyauna rabbahum bil-gaibi lahum magfiratuw wa ajrun kabīr(un).
[12] 本当に自分たちの主*を、まだ見ぬままに恐れる¹者たち、彼らには(罪の)赦しと、(天国での)大いなる報いがある。
1 「(アッラー*を)まだ見ぬままに恐れ」ることについては、預言者*たち章49の訳注を参照。

وَاَسِرُّوْا قَوْلَكُمْ اَوِ اجْهَرُوْا بِهٖۗ اِنَّهٗ عَلِيْمٌ ۢبِذَاتِ الصُّدُوْرِ١٣
Wa asirrū qaulakum awijharū bih(ī), innahū ‘alīmum biżātiṣ-ṣudūr(i).
[13] (人々よ、)あなた方の言葉を、秘密にしてみよ。あるいは、それを公にしてみよ(、いずれにしても、アッラー*には同じこと)。本当にかれは、胸中にあるものをご存知のお方なのだから。

اَلَا يَعْلَمُ مَنْ خَلَقَۗ وَهُوَ اللَّطِيْفُ الْخَبِيْرُ ࣖ١٤
Alā ya‘lamu man khalaq(a), wa huwal-laṭīful-khabīr(u).
[14] 創造されたお方が、(彼らのことを)ご存知にならないとでも?かれは霊妙な*お方、通暁されるお方だというのに。

هُوَ الَّذِيْ جَعَلَ لَكُمُ الْاَرْضَ ذَلُوْلًا فَامْشُوْا فِيْ مَنَاكِبِهَا وَكُلُوْا مِنْ رِّزْقِهٖۗ وَاِلَيْهِ النُّشُوْرُ١٥
Huwal-lażī ja‘ala lakumul-arḍa żalūlan famsyū fī manākibihā wa kulū mir rizqih(ī), wa ilaihin-nusyūr(u).
[15] かれはあなた方のため、大地を平坦にされたお方。ゆえにその方々を歩き、かれの糧から食べるがよい。そしてかれにこそ、(清算と報いのための)復活があるのだ。

ءَاَمِنْتُمْ مَّنْ فِى السَّمَاۤءِ اَنْ يَّخْسِفَ بِكُمُ الْاَرْضَ فَاِذَا هِيَ تَمُوْرُۙ١٦
A'amintum man fis-samā'i ay yakhsifa bikumul-arḍa fa'iżā hiya tamūr(u).
[16] (不信仰者*たちよ、)一体あなた方は天におられるお方(アッラー*)が、地面をあなた方もろとも沈め給うことから、安全なのか?そしてどうであろう、それ(大地)は(あなた方を滅ぼすまで、)揺れ動くのである。

اَمْ اَمِنْتُمْ مَّنْ فِى السَّمَاۤءِ اَنْ يُّرْسِلَ عَلَيْكُمْ حَاصِبًاۗ فَسَتَعْلَمُوْنَ كَيْفَ نَذِيْرِ١٧
Am amintum man fis-samā'i ay yursila ‘alaikum ḥāṣibā(n), fa sata‘lamūna kaifa nażīr(i).
[17] いや、一体あなた方は、天におられるお方(アッラー*)が自分たちに、石を運ぶ風をお送りになることから安全だというのか?ならば彼らは、わが警告がいかなるものかを知ることのになろう。

وَلَقَدْ كَذَّبَ الَّذِيْنَ مِنْ قَبْلِهِمْ فَكَيْفَ كَانَ نَكِيْرِ١٨
Wa laqad każżabal-lażīna min qablihim fakaifa kāna nakīr(i).
[18] 彼ら(マッカ*の不信仰者たち)以前の者たちは、確かに(彼らの使徒*たちを)噓つき呼ばわりしたのだ。それで、わが否認はいかなるものだったか?¹
1 「わが否認はいかなるものだったか?」については、巡礼*章44の訳注を参照。

اَوَلَمْ يَرَوْا اِلَى الطَّيْرِ فَوْقَهُمْ صٰۤفّٰتٍ وَّيَقْبِضْنَۘ مَا يُمْسِكُهُنَّ اِلَّا الرَّحْمٰنُۗ اِنَّهٗ بِكُلِّ شَيْءٍۢ بَصِيْرٌ١٩
Awalam yarau ilaṭ-ṭairi fauqahum ṣāffātiw wa yaqbiḍn(a), mā yumsikuhunna illar-raḥmān(u), innahū bikulli syai'im baṣīr(un).
[19] (その無頓着さゆえ、)彼ら(不信仰者*たち)は、自分たちの頭上を羽を広げたり、畳んだり(して飛行)する鳥を見なかったのか?それらを(墜落から)支えられるのは、慈悲あまねき*お方(アッラー*)しかおられない。本当にかれは、全てのことをご覧になるお方。

اَمَّنْ هٰذَا الَّذِيْ هُوَ جُنْدٌ لَّكُمْ يَنْصُرُكُمْ مِّنْ دُوْنِ الرَّحْمٰنِۗ اِنِ الْكٰفِرُوْنَ اِلَّا فِيْ غُرُوْرٍۚ٢٠
Am man hāżal-lażī huwa jundul lakum yanṣurukum min dūnir-raḥmān(i), inil-kāfirūna illā fī gurūr(in).
[20] いや(、不信仰者*たちよ)、慈悲あまねき*お方を差しおいてあなた方を援助する、あなた方の軍勢であるこの者¹とは、誰なのか?不信仰者*たちは外ならぬ、(シャイターン*の)欺きの中にある。
1 アッラー*以外のいかなるものが、いかなる敵に対してどれだけ集結したとしても、それら自体が人を益することは少しもない(アッ=サアディー877頁参照)。

اَمَّنْ هٰذَا الَّذِيْ يَرْزُقُكُمْ اِنْ اَمْسَكَ رِزْقَهٗ ۚ بَلْ لَّجُّوْا فِيْ عُتُوٍّ وَّنُفُوْرٍ٢١
Am man hāżal-lażī yarzuqukum in amsaka rizqah(ū), bal lajjū fī ‘utuwwiw wa nufūr(in).
[21] いや、あなた方に糧を授けてくれる、この者とは誰なのかーーかれ(アッラー*)が、その糧を(あなた方から)お控えになったとしたらーー?いや、彼らは反抗と(真理への)忌避と共に、歯向かったのである。

اَفَمَنْ يَّمْشِيْ مُكِبًّا عَلٰى وَجْهِهٖٓ اَهْدٰىٓ اَمَّنْ يَّمْشِيْ سَوِيًّا عَلٰى صِرَاطٍ مُّسْتَقِيْمٍ٢٢
Afamay yamsyī mukibban ‘alā wajhihī ahdā ammay yamsyī sawiyyan ‘alā ṣirāṭim mustaqīm(in).
[22] 一体、顔を下にして歩く者が、より導かれているのか?それとも、まっすぐな道を正しく歩く者か?¹
1 前者は、真理が虚妄(きょもう)、虚妄が真理になってしまうという心が逆転した状態にあり、迷いと不信仰に浸(ひた)りきっている者のたとえ。後者は真理を知り、それを尊(たっと)び、それに則って行い、あらゆる言動や状態においてまっすぐな道を歩く者(前掲書、同頁参照)。尚、来世において信仰者は天国へとまっすぐに導かれるが、不信仰者*は、顔から逆さにされて地獄に集められる(イブン・カスィール8:161参照)。夜の旅章97とその訳注、蟻章90も参照。

قُلْ هُوَ الَّذِيْٓ اَنْشَاَكُمْ وَجَعَلَ لَكُمُ السَّمْعَ وَالْاَبْصَارَ وَالْاَفْـِٕدَةَۗ قَلِيْلًا مَّا تَشْكُرُوْنَ٢٣
Qul huwal-lażī ansya'akum wa ja‘ala lakumus-sam‘a wal-abṣāra wal-af'idah(ta), qalīlam mā tasykurūn(a).
[23] (使徒*よ、)言ってやれ。「かれ(アッラー*)はあなた方を創造(そうぞう)し、あなた方に聴覚と視覚と心を備え付けて下さったお方。(不信仰者*たちよ、)あなた方が感謝することの少ないこと」。

قُلْ هُوَ الَّذِيْ ذَرَاَكُمْ فِى الْاَرْضِ وَاِلَيْهِ تُحْشَرُوْنَ٢٤
Qul huwal-lażī żara'akum fil-arḍi wa ilaihi tuḥsyarūn(a).
[24] 言ってやるがいい。「かれは、あなた方に大地に繁茂させられたお方。そしてかれの御許にこそ、あなた方は召集されるのだ」。

وَيَقُوْلُوْنَ مَتٰى هٰذَا الْوَعْدُ اِنْ كُنْتُمْ صٰدِقِيْنَ٢٥
Wa yaqūlūna matā hāżal-wa‘du in kuntum ṣādiqīn(a).
[25] 彼ら(不信仰者*たち)は、言う。「その約束(復活の日*)は、いつなのか?もし、あなた方が本当のことを言っているのならば」。

قُلْ اِنَّمَا الْعِلْمُ عِنْدَ اللّٰهِ ۖوَاِنَّمَآ اَنَا۠ نَذِيْرٌ مُّبِيْنٌ٢٦
Qul innamal-‘ilmu ‘indallāh(i), wa innamā ana nażīrum mubīn(un).
[26] (使徒*よ、)言ってやれ。「(復活の日*の到来についての)その知識は、アッラー*の御許にこそある。そして私は、明白なる警告者でしかないのだ」。

فَلَمَّا رَاَوْهُ زُلْفَةً سِيْۤـَٔتْ وُجُوْهُ الَّذِيْنَ كَفَرُوْا وَقِيْلَ هٰذَا الَّذِيْ كُنْتُمْ بِهٖ تَدَّعُوْنَ٢٧
Falammā ra'auhu zulfatan sī'at wujūhul-lażīna kafarū wa qīla hāżal-lażī kuntum bihī tadda‘ūn(a).
[27] それ(アッラー*の懲罰)が近くに迫るのを目にすると、不信仰だった者*たちの顔つきは(憂鬱さゆえに、)悪くなる。そして彼らには、(こう)言われるのだ。「これが、あなた方が(現世で、その到来を)求めていた¹ものである」。
1 「(それは到来しない、と)思い込んでいた」という解釈もある(アッ=シャウカーニー5:352参照)。

قُلْ اَرَءَيْتُمْ اِنْ اَهْلَكَنِيَ اللّٰهُ وَمَنْ مَّعِيَ اَوْ رَحِمَنَاۙ فَمَنْ يُّجِيْرُ الْكٰفِرِيْنَ مِنْ عَذَابٍ اَلِيْمٍ٢٨
Qul ara'aitum in ahlakaniyallāhu wa mam ma‘iya au raḥimanā, famay yujīrul-kāfirīna min ‘ażābin alīm(in).
[28] (使徒*よ、彼ら不信仰者*たちに)言ってやるがいい。「言ってみよ、もしアッラー*が私と、私と共にある(信仰)者を滅ぼされたり、または私たちにご慈悲をおかけになっ(て、罰から救ってくれ)たりしたとしても、一体誰が、不信仰者たちを痛ましい懲罰から守ってくれるのか?

قُلْ هُوَ الرَّحْمٰنُ اٰمَنَّا بِهٖ وَعَلَيْهِ تَوَكَّلْنَاۚ فَسَتَعْلَمُوْنَ مَنْ هُوَ فِيْ ضَلٰلٍ مُّبِيْنٍ٢٩
Qul huwar-raḥmānu āmannā bihī wa ‘alaihi tawakkalnā, fasata‘lamūna man huwa fī ḍalālim mubīn(in).
[29] 言ってやれ。「かれは、慈悲あまねき*お方。私たちはかれを信じ、かれに全てを委ねた*。ならば、あなた方は誰がまさに明らかな迷いの中にあったのか、知ることになろう」。

قُلْ اَرَءَيْتُمْ اِنْ اَصْبَحَ مَاۤؤُكُمْ غَوْرًا فَمَنْ يَّأْتِيْكُمْ بِمَاۤءٍ مَّعِيْنٍ ࣖ٣٠
Qul ara'aitum in aṣbaḥa mā'ukum gauran famay ya'tīkum bimā'im ma‘īn(in).
[30] (使徒*よ、シルクの徒*に)言うのだ。「言ってみよ、もしあなた方の水が(地下に沈んで)無くなってしまったら、一体誰が、あなた方に湧き水を与えてくれるというのか?」