Surah Al-Waqi’ah
بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ
اِذَا وَقَعَتِ الْوَاقِعَةُۙ١
Iżā waqa‘atil-wāqi‘ah(tu).
[1]
(復活の日*という)出来事が起こる時。
لَيْسَ لِوَقْعَتِهَا كَاذِبَةٌ ۘ٢
Laisa liwaq‘atihā kāżibah(tun).
[2]
それが起きるのを、嘘とする者はいない。
خَافِضَةٌ رَّافِعَةٌ٣
Khāfiḍatur rāfi‘ah(tun).
[3]
(その出来事は、ある民を地獄へと)下げ、(ある民を天国へと)上げる。
اِذَا رُجَّتِ الْاَرْضُ رَجًّاۙ٤
Iżā rujjatil-arḍu rajjā(n).
[4]
大地は激しく揺れ動き、
وَّبُسَّتِ الْجِبَالُ بَسًّاۙ٥
Wa bussatil-jibālu bassā(n).
[5]
山々は細かく砕け散って、
فَكَانَتْ هَبَاۤءً مُّنْۢبَثًّاۙ٦
Fa kānat habā'am mumbaṡṡā(n).
[6]
ばらばらの塵屑となり、¹
1 復活の日*の天変地異の様子については、洞窟章47、ター・ハー章105-107、蟻章88、山章9-10、衣を纏(まと)う 者章14、真実章13-15、階段章8-9、消息章20、巻き込む章3、衝撃章4-5なども参照。
وَّكُنْتُمْ اَزْوَاجًا ثَلٰثَةً ۗ٧
Wa kuntum azwājan ṡalāṡah(tan).
[7]
あなた方(人々)が三つの種類¹となる時。
1 アーヤ*8、9、10のそれぞれで言及されている者たち(イブン・カスィール7:515参照)。
فَاَصْحٰبُ الْمَيْمَنَةِ ەۙ مَآ اَصْحٰبُ الْمَيْمَنَةِ ۗ٨
Fa aṣḥābul-maimanah(ti), mā aṣḥābul-maimanah(ti).
[8]
右側の徒、右側の徒とは何か?
وَاَصْحٰبُ الْمَشْـَٔمَةِ ەۙ مَآ اَصْحٰبُ الْمَشْـَٔمَةِ ۗ٩
Wa aṣḥābul-masy'amah(ti), mā aṣḥābul-masy'amah(ti).
[9]
また左側の徒、左側の徒とは何か?¹
1 「右側の徒」とは、高い位の者たちで、「左側の徒」は低い位の者たち(ムヤッサル534頁参照)。 その名前の由来については、「天国が右側、地獄が左側にあるため」「アーダム*の全ての子孫がその後背部から出された時(高壁章172とその訳注も参照)、彼の右側にいた者たちが、天国の民となることを約束されたため」「行いの帳簿を右手に渡された者が天国の徒に、左手に渡された者が地獄の徒となるため」「右fが善行を、左が悪行を表しているため」などの諸説がある(アル=クルトゥビー17:198参照)。
وَالسّٰبِقُوْنَ السّٰبِقُوْنَۙ١٠
Was-sābiqūnas-sābiqūn(a).
[10]
そして(現世で善に)先んじる者たちは、(来世で高い位へと)先んじる者たち。
اُولٰۤىِٕكَ الْمُقَرَّبُوْنَۚ١١
Ulā'ikal-muqarrabūn(a).
[11]
それらの者たちは、(アッラー*の御許における)側近である、
فِيْ جَنّٰتِ النَّعِيْمِ١٢
Fī jannātin-na‘īm(i).
[12]
安寧の楽園において。
ثُلَّةٌ مِّنَ الْاَوَّلِيْنَۙ١٣
Ṡullatum minal-awwalīn(a).
[13]
(彼ら側近たちは、)先代の者たちから多く、
وَقَلِيْلٌ مِّنَ الْاٰخِرِيْنَۗ١٤
Wa qalīlum minal-ākhirīn(a).
[14]
後代の者たちからは少ない¹。
1 「先代」とは、預言者*ムハンマド*の共同体、及びその他のイスラーム*共同たちの先代の者たち。「後代」とは、イスラーム*共同体の後代の者たち(ムヤッサル534頁参照)。
عَلٰى سُرُرٍ مَّوْضُوْنَةٍۙ١٥
‘Alā sururim mauḍūnah(tin).
[15]
(金銀宝石で)刺繍された寝台の上に、
مُّتَّكِـِٕيْنَ عَلَيْهَا مُتَقٰبِلِيْنَ١٦
Muttaki'īna ‘alaihā mutaqābilīn(a).
[16]
その上に寄りかかって、互いに向かい合いつつ。¹
1 アル=ヒジュル章47の訳注を参照。
يَطُوْفُ عَلَيْهِمْ وِلْدَانٌ مُّخَلَّدُوْنَۙ١٧
Yaṭūfu ‘alaihim wildānum mukhalladūn(a).
[17]
永遠の少年たちが、彼らの周りを(奉仕のために)回って歩く。
بِاَكْوَابٍ وَّاَبَارِيْقَۙ وَكَأْسٍ مِّنْ مَّعِيْنٍۙ١٨
Bi'akwābiw wa abārīq(a), wa ka'sim mim ma‘īn(in).
[18]
杯と、水差しと、(酒*の)湧き水からの盃を携えて。
لَّا يُصَدَّعُوْنَ عَنْهَا وَلَا يُنْزِفُوْنَۙ١٩
Lā yuṣadda‘ūna ‘anhā wa lā yunzifūn(a).
[19]
彼らはそれ(酒*)ゆえに頭痛を催すことも、理性を失うこともない。
وَفَاكِهَةٍ مِّمَّا يَتَخَيَّرُوْنَۙ٢٠
Wa fākihatim mimmā yatakhayyarūn(a).
[20]
また(永遠の少年たちは)、彼ら(側近たち)が選り取りの果実と、
وَلَحْمِ طَيْرٍ مِّمَّا يَشْتَهُوْنَۗ٢١
Wa laḥmi ṭairim mimmā yasytahūn(a).
[21]
彼らが欲する鶏肉を(携えて、彼らを回って歩く)。
وَحُوْرٌ عِيْنٌۙ٢٢
Wa ḥūrun ‘īn(un).
[22]
また(彼らには)、麗しい眼の色白の女性たちがいる、¹
1 雌牛章25「純潔な妻」の訳注、および整列者章48、煙霧章54の訳注も参照。
كَاَمْثَالِ اللُّؤْلُؤِ الْمَكْنُوْنِۚ٢٣
Ka'amṡālil-lu'lu'il-maknūn(i).
[23]
秘められた真珠のような(女性たちが)、
جَزَاۤءًۢ بِمَا كَانُوْا يَعْمَلُوْنَ٢٤
Jazā'am bimā kānū ya‘malūn(a).
[24]
彼らが(現世で)行っていた(正しい)ことゆえの、報いとして。
لَا يَسْمَعُوْنَ فِيْهَا لَغْوًا وَّلَا تَأْثِيْمًاۙ٢٥
Lā yasma‘ūna fīhā lagwaw wa lā ta'ṡīmā(n).
[25]
彼らはそこで、戯言¹も罪な言葉も、耳にすることがない。
1 「戯言」については、信仰者たち章3の同語の訳注を参照。
اِلَّا قِيْلًا سَلٰمًا سَلٰمًا٢٦
Illā qīlan salāman salāmā(n).
[26]
ただ、「(あなた方に)平安を、(あなた方に)平安を¹」という(互いに交わサれる)言葉を聞くだけ。
1 「あなた方に平安を」については、雷鳴章24の訳注を参照。
وَاَصْحٰبُ الْيَمِيْنِ ەۙ مَآ اَصْحٰبُ الْيَمِيْنِۗ٢٧
Wa aṣḥābul-yamīn(i), mā aṣḥābul-yamīn(i).
[27]
そして右側の徒、右側の徒¹(の大いなる位と報い)とは何か?
1 「右側の徒」については、アーヤ*8-9の訳注を参照。
فِيْ سِدْرٍ مَّخْضُوْدٍۙ٢٨
Fī sidrim makhḍūd(in).
[28]
(彼らは、)棘のないスィドル¹、
1 「スィドル」に ついては、サバア章16の訳注を参照。現世では棘だらけで実のな少ないスィドルの木だが、来世では逆に棘がなく、沢山の実をつけるのだという(イブン・カスィール7:525参照)。
وَّطَلْحٍ مَّنْضُوْدٍۙ٢٩
Wa ṭalḥim manḍūd(in).
[29]
折り重なるバナナ¹、
1 アル=クルトゥビ ー*によれば、この「バナナ」という解釈が大半の学者の見解だが、ほかにも「アカシアの木」という解釈もある(17:208参照)。
وَّظِلٍّ مَّمْدُوْدٍۙ٣٠
Wa ẓillim mamdūd(in).
[30]
(消え入ることなく)行き渡る陰、
وَّمَاۤءٍ مَّسْكُوْبٍۙ٣١
Wa mā'im maskūb(in).
[31]
(涸れることなく)流れる水、
وَّفَاكِهَةٍ كَثِيْرَةٍۙ٣٢
Wa fākihatin kaṡīrah(tin).
[32]
ふんだんな果実の中にいる。
لَّا مَقْطُوْعَةٍ وَّلَا مَمْنُوْعَةٍۙ٣٣
Lā maqṭū‘atiw wa lā mamnū‘ah(tin).
[33]
絶えることがなく、禁じられもしない(果実の中に)。
وَّفُرُشٍ مَّرْفُوْعَةٍۗ٣٤
Wa furusyim marfū‘ah(tin).
[34]
また、高く上げられた寝床(の中に)。
اِنَّآ اَنْشَأْنٰهُنَّ اِنْشَاۤءًۙ٣٥
Innā ansya'nāhunna insyā'ā(n).
[35]
本当にわれら*は彼女(天国の女性)たちを、(完全な形に)創り上げ¹、
1 雌牛章25「純潔な妻」の訳注、および整列者章48、煙霧章54の訳注も参照。
فَجَعَلْنٰهُنَّ اَبْكَارًاۙ٣٦
Faja‘alnāhunna abkārā(n).
[36]
彼女たちを処女とし、
عُرُبًا اَتْرَابًاۙ٣٧
‘Uruban atrābā(n).
[37]
愛らしく、(彼女ら自身が互いに)同い年の女性とした。
لِّاَصْحٰبِ الْيَمِيْنِۗ٣٨
Li'aṣḥābil-yamīn(i).
[38]
右側の徒のために。
ثُلَّةٌ مِّنَ الْاَوَّلِيْنَۙ٣٩
Ṡullatum minal-awwalīn(a).
[39]
(彼らは、)先代の者たちから多く、
وَثُلَّةٌ مِّنَ الْاٰخِرِيْنَۗ ࣖ٤٠
Wa ṡullatum minal-ākhirīn(a).
[40]
後代の者たちからも多い。
وَاَصْحٰبُ الشِّمَالِ ەۙ مَآ اَصْحٰبُ الشِّمَالِۗ٤١
Wa aṣḥābusy-syimāl(i), mā aṣḥābusy-syimāl(i).
[41]
そして左側の徒、左側の徒¹(の状態と報い)とは何か?
1 「左側の徒」については、アーヤ*8-9の訳注を参照。
فِيْ سَمُوْمٍ وَّحَمِيْمٍۙ٤٢
Fī samūmiw wa ḥamīm(in).
[42]
(彼らは、)熱風と煮えたぎる湯、
وَّظِلٍّ مِّنْ يَّحْمُوْمٍۙ٤٣
Wa ẓillim miy yaḥmūm(in).
[43]
黒煙の陰の中。
لَّا بَارِدٍ وَّلَا كَرِيْمٍ٤٤
Lā bāridiw wa lā karīm(in).
[44]
涼しくも、麗しくもない(陰の中にいる)。
اِنَّهُمْ كَانُوْا قَبْلَ ذٰلِكَ مُتْرَفِيْنَۚ٤٥
Innahum kānū qabla żālika mutrafīn(a).
[45]
本当に彼らはそれ以前、(現世で禁じられた)贅を尽くしていた者たちだったのであり、
وَكَانُوْا يُصِرُّوْنَ عَلَى الْحِنْثِ الْعَظِيْمِۚ٤٦
Wa kānū yuṣirrūna ‘alal-ḥinṡil-‘aẓīm(i).
[46]
この上ない罪¹に固執し、
1 「この上ない罪」とは、アッラー*への不信仰、シルク*、かれへの反抗のこと(ムヤッサル535頁参照)。
وَكَانُوْا يَقُوْلُوْنَ ەۙ اَىِٕذَا مِتْنَا وَكُنَّا تُرَابًا وَّعِظَامًا ءَاِنَّا لَمَبْعُوْثُوْنَۙ٤٧
Wa kānū yaqūlūn(a), a'iżā mitnā wa kunnā turābaw wa ‘iẓāman a'innā lamab‘ūṡūn(a).
[47]
(こう)言っていたからなのだ。「一体、私たちが死んで砂と骨と化した後、本当に蘇らされるというのか?
اَوَاٰبَاۤؤُنَا الْاَوَّلُوْنَ٤٨
Awa'ābā'unal-awwalūn(a).
[48]
そして、私たちの先代のご先祖様たちも?」
قُلْ اِنَّ الْاَوَّلِيْنَ وَالْاٰخِرِيْنَۙ٤٩
Qul innal-awwalīna wal-ākhirīn(a).
[49]
(使徒*よ、)言ってやるがいい。「本当に先代の者たちも、後代の者たちも、
لَمَجْمُوْعُوْنَۙ اِلٰى مِيْقَاتِ يَوْمٍ مَّعْلُوْمٍ٥٠
Lamajmū‘ūn(a), ilā mīqāti yaumim ma‘lūm(in).
[50]
(復活の日*という)定められた日の定められた時に、まさしく集められるのである。
ثُمَّ اِنَّكُمْ اَيُّهَا الضَّاۤ لُّوْنَ الْمُكَذِّبُوْنَۙ٥١
Ṡumma innakum ayyuhaḍ-ḍāllūnal-mukażżibūn(a).
[51]
それからーー(アッラー*のお約束を)嘘呼ばわりする迷い人たちよーー、本当にあなた方は、
لَاٰكِلُوْنَ مِنْ شَجَرٍ مِّنْ زَقُّوْمٍۙ٥٢
La'ākilūna min syajarim min zaqqūm(in).
[52]
まさにザックームの木¹から食べ、
1 「ザックームの木」については、夜の旅章60「呪われた木」の訳注、および整列者章62-66,煙霧章43-46を参照。
فَمَالِـُٔوْنَ مِنْهَا الْبُطُوْنَۚ٥٣
Fa māli'ūna minhal-buṭūn(a).
[53]
それで腹を満たし、
فَشٰرِبُوْنَ عَلَيْهِ مِنَ الْحَمِيْمِۚ٥٤
Fasyāribūna ‘alaihi minal-ḥamīm(i).
[54]
その上に煮えたぎる湯を飲み、
فَشٰرِبُوْنَ شُرْبَ الْهِيْمِۗ٥٥
Fa syāribūna syurbal-hīm(i).
[55]
喉を渇かせたラクダが飲むように、(それを)飲む者たち。
هٰذَا نُزُلُهُمْ يَوْمَ الدِّيْنِۗ٥٦
Hāżā nuzuluhum yaumad-dīn(i).
[56]
これが報いの日*の、彼ら(へ)の御もてなし¹である。
1 この「御もてなし」については、洞窟章102の訳注を参照。
نَحْنُ خَلَقْنٰكُمْ فَلَوْلَا تُصَدِّقُوْنَ٥٧
Naḥnu khalaqnākum falau lā tuṣaddiqūn(a).
[57]
(人々よ、)われら*があなた方を、創ったのだ。なのに、どうしてあなた方は(死後の復活を)信じないのか?
اَفَرَءَيْتُمْ مَّا تُمْنُوْنَۗ٥٨
Afa ra'aitum mā tumnūn(a).
[58]
言ってみよ、あなた方が(自分たちの妻の子宮に)射精するものについて。
ءَاَنْتُمْ تَخْلُقُوْنَهٗٓ اَمْ نَحْنُ الْخٰلِقُوْنَ٥٩
A'antum takhluqūnahū am naḥnul-khāliqūn(a).
[59]
一体、あなた方がそれを(人間として)創るのか?それとも、われら*が創造者なのか?
نَحْنُ قَدَّرْنَا بَيْنَكُمُ الْمَوْتَ وَمَا نَحْنُ بِمَسْبُوْقِيْنَۙ٦٠
Naḥnu qaddarnā bainakumul-mauta wa mā naḥnu bimasbūqīn(a).
[60]
われら*はあなた方(各々)の間に、死(の時期)を定めたのであり、不能者などではない、
عَلٰٓى اَنْ نُّبَدِّلَ اَمْثَالَكُمْ وَنُنْشِئَكُمْ فِيْ مَا لَا تَعْلَمُوْنَ٦١
‘Alā an nubaddila amṡālakum wa nunsyi'akum fī mā lā ta‘lamūn(a).
[61]
われら*が(あなた方を、)あなた方と同様の存在と取り替え、あなた方をあなた方が知らない形に創造することにおいて。¹
1 これは一説に、過去の民に起こったように、その姿形を猿や豚などに変えられてしまうこと(食卓章60参照)。あるいは来世において、現世のものとは違う形に蘇(よみがえ)らされる、ということ(アル=クルトゥビー17:217参照)。
وَلَقَدْ عَلِمْتُمُ النَّشْاَةَ الْاُوْلٰى فَلَوْلَا تَذَكَّرُوْنَ٦٢
Wa laqad ‘alimtumun-nasy'atal-ūlā falau lā tażakkarūn(a).
[62]
あなた方は確かに、最初の創造を知っている。なのに、どうして(アッラー*は二度目の創造もされるとの、)教訓を得ないのか?¹
1 「最初の創出」とは、アッラー*が彼らを創造されたこと。二度目のものは、復活(ムヤッサル536頁参照)。 マルヤム*章67、ビザンチン章27、ヤー・スィーン章77-79、復活章36-40も参照。
اَفَرَءَيْتُمْ مَّا تَحْرُثُوْنَۗ٦٣
Afara'aitum mā taḥruṡūn(a).
[63]
言ってみよ、あなた方が耕すものについて。
ءَاَنْتُمْ تَزْرَعُوْنَهٗٓ اَمْ نَحْنُ الزّٰرِعُوْنَ٦٤
A'antum tazra‘ūnahū am naḥnuz-zāri‘ūn(a).
[64]
一体、あなた方がそれ(作物)を生育させるのか?それとも、われら*が生育者なのか?
لَوْ نَشَاۤءُ لَجَعَلْنٰهُ حُطَامًا فَظَلْتُمْ تَفَكَّهُوْنَۙ٦٥
Lau nasyā'u laja‘alnāhu ḥuṭāman fa ẓaltum tafakkahūn(a).
[65]
もし望んだなら、われら*はそれを木っ端微塵にし、あなた方は(その罰に)驚愕したままとなっただろう。
اِنَّا لَمُغْرَمُوْنَۙ٦٦
Innā lamugramūn(a).
[66]
「本当に私たちは、破滅者である。
بَلْ نَحْنُ مَحْرُوْمُوْنَ٦٧
Bal naḥnu maḥrūmūn(a).
[67]
いや、私たちは(糧を)禁じられてしまったのだ」(と言いつつ。)
اَفَرَءَيْتُمُ الْمَاۤءَ الَّذِيْ تَشْرَبُوْنَۗ٦٨
Afa ra'aitumul-mā'al-lażī tasyrabūn(a).
[68]
言ってみよ、あなた方が飲むもの(水)について。
ءَاَنْتُمْ اَنْزَلْتُمُوْهُ مِنَ الْمُزْنِ اَمْ نَحْنُ الْمُنْزِلُوْنَ٦٩
A'antum anzaltumūhu minal-muzni am naḥnul-munzilūn(a).
[69]
一体、あなた方がそれを雲から(地上へ)降らすのか?それとも、われら*が降らす者なのか?
لَوْ نَشَاۤءُ جَعَلْنٰهُ اُجَاجًا فَلَوْلَا تَشْكُرُوْنَ٧٠
Lau nasyā'u ja‘alnāhu ujājan falau lā tasykurūn(a).
[70]
もし望んだなら、われら*はそれを辛いものとしたのだ。なのに、どうしてあなた方は感謝しないのか?
اَفَرَءَيْتُمُ النَّارَ الَّتِيْ تُوْرُوْنَۗ٧١
Afa ra'aitumun-nāral-latī tūrūn(a).
[71]
言ってみよ、あなた方が点す火について。
ءَاَنْتُمْ اَنْشَأْتُمْ شَجَرَتَهَآ اَمْ نَحْنُ الْمُنْشِـُٔوْنَ٧٢
A'antum ansya'tum syajaratahā am naḥnul-munsyi'ūn(a).
[72]
一体、あなた方が(火種とする)その木を創ったのか?それとも、われら*が(その)創造者なのか?
نَحْنُ جَعَلْنٰهَا تَذْكِرَةً وَّمَتَاعًا لِّلْمُقْوِيْنَۚ٧٣
Naḥnu ja‘alnāhā tażkirataw wa matā‘al lil-muqwīn(a).
[73]
われら*はそれを(復活と地獄の業火を想起させる)教訓と、広漠な地にある者¹たちへの益としたのだ。
1 「空腹な者たち」という解釈もある。いずれにせよ、広漠な地にある者は明かりや暖において、空腹な者は食べ物とその調理において、火から特に大きな益を得る(イブン・アーシュール27:327参照)。
فَسَبِّحْ بِاسْمِ رَبِّكَ الْعَظِيْمِ ࣖ٧٤
Fa sabbiḥ bismi rabbikal-‘aẓīm(i).
[74]
ならば(預言者*よ)、この上なく偉大なあなたの主*の御名と共に、(かれを)称え*よ。
۞ فَلَآ اُقْسِمُ بِمَوٰقِعِ النُّجُوْمِ٧٥
Falā uqsimu bimawāqi‘in-nujūm(i).
[75]
われら*はまさに、星々の沈む場所¹にかけて誓う。²
1 「星々の沈む場所」のほかにも、「クルアーン*が徐々に下ったこと」「星々の位置」といった解釈の仕方もある(イブン・カスィール7:544参照)。 2 この誓いについては、整列者章1の訳注を参照。
وَاِنَّهٗ لَقَسَمٌ لَّوْ تَعْلَمُوْنَ عَظِيْمٌۙ٧٦
Wa innahū laqasamul lau ta‘lamūna ‘aẓīm(un).
[76]
本当にそれはまさしく、偉大なる誓いなのである。もし、あなた方が(そのことを)知っているのならば。
اِنَّهٗ لَقُرْاٰنٌ كَرِيْمٌۙ٧٧
Innahū laqur'ānun karīm(un).
[77]
実にそれはまさしく、気高いクルアーン*なのだ、
فِيْ كِتٰبٍ مَّكْنُوْنٍۙ٧٨
Fī kitābim maknūn(in).
[78]
秘められた書¹の中の。
1 「秘められた書」には、「クルアーン*が記録されている、守られし碑板*(金の装飾章4とその訳注を参照)」「啓示と共に下される、天使*たちの手許にある書」(アッ=サァディー836頁参照)「書物としての形のクルアーン*」といった解釈がある(アル=クルトゥビー17:225参照)。
لَّا يَمَسُّهٗٓ اِلَّا الْمُطَهَّرُوْنَۗ٧٩
Lā yamassuhū illal-muṭahharūn(a).
[79]
清浄な者たちしか、それに触れることはない。¹
1 それに触れることが出来るのは、害や罪のない清浄な存在である天使*たちと、シルク*、ジャナーバ*、穢(けが)れのない状態にある者たちだけである(ムヤッサル537頁参照)。
تَنْزِيْلٌ مِّنْ رَّبِّ الْعٰلَمِيْنَ٨٠
Tanzīlum mir rabbil-‘ālamīn(a).
[80]
(それは)全創造物の主*からの、降示なのである。
اَفَبِهٰذَا الْحَدِيْثِ اَنْتُمْ مُّدْهِنُوْنَۙ٨١
Afa biḥāżal-ḥadīṡi antum mudhinūn(a).
[81]
(シルク*の徒よ、)一体あなた方は、(クルアーン*という)この話を嘘呼ばわりする者¹なのか?
1 「噓呼ばわりする者(ムドゥヒン)」の語源的な意味は、「本心ではないもので上辺を取り繕(つくろ)う者」のことで、ほかにも「否定者」「偽善(ぎぜん)者」「背(そむ)く 者」「受け入れる決意のない者」などといった解釈がある(アル=クルトゥビー17:227-228参照)。
وَتَجْعَلُوْنَ رِزْقَكُمْ اَنَّكُمْ تُكَذِّبُوْنَ٨٢
Wa taj‘alūna rizqakum annakum tukażżibūn(a).
[82]
そして自分たちの糧(への感謝の念)を、(恩恵に対する)嘘呼ばわりに替えるというのか?
فَلَوْلَآ اِذَا بَلَغَتِ الْحُلْقُوْمَۙ٨٣
Falau lā iżā balagatil-ḥulqūm(a).
[83]
さあ、(魂を体に押し留めてみよ、)それが喉元に達した時に。¹
1 家畜章61,93とその訳注も参照。
وَاَنْتُمْ حِيْنَىِٕذٍ تَنْظُرُوْنَۙ٨٤
Wa antum ḥīna'iżin tanẓurūn(a).
[84]
あなた方はその時、(その様子を)目の当たりにして(何も出来ずに)いる。
وَنَحْنُ اَقْرَبُ اِلَيْهِ مِنْكُمْ وَلٰكِنْ لَّا تُبْصِرُوْنَ٨٥
Wa naḥnu aqrabu ilaihi minkum wa lākil lā tubṣirūn(a).
[85]
われら*(の天使*たち)は、あなた方(自身)よりもそれ(あなた方の魂)に近いのだが、あなた方には(彼らが)見えないのだ。
فَلَوْلَآ اِنْ كُنْتُمْ غَيْرَ مَدِيْنِيْنَۙ٨٦
Falau lā in kuntum gaira madīnīn(a).
[86]
さあ、もしあなた方が、(自分たちの行いによって)報いを受ける者ではないというのであれば、
تَرْجِعُوْنَهَآ اِنْ كُنْتُمْ صٰدِقِيْنَ٨٧
Tarji‘ūnahā in kuntum ṣādiqīn(a).
[87]
それ(魂)を(体に)戻してみるがいい。もし、あなた方が本当のことを言っているというならば。
فَاَمَّآ اِنْ كَانَ مِنَ الْمُقَرَّبِيْنَۙ٨٨
Fa ammā in kāna minal-muqarrabīn(a).
[88]
もし(死んだ者が、)側近たち¹の内の者だったのであれば、
1 「側近たち」については、アーヤ*10-11も参照。
فَرَوْحٌ وَّرَيْحَانٌ ەۙ وَّجَنَّتُ نَعِيْمٍ٨٩
Fa rauḥuw wa raiḥān(un), wa jannatu na‘īm(in).
[89]
(彼には)ご慈悲、芳しいもの¹、安寧の楽園がある。
1 「ご慈悲(ラウフ)」の解釈には、ほかにも「安息」「喜び」「お赦しとご慈悲」といった諸説があり、「芳しいもの(ライハーン)」には、「安息」「糧」「香り高い植物 」といった解釈もある(アル=バガウィー5:22参照)。
وَاَمَّآ اِنْ كَانَ مِنْ اَصْحٰبِ الْيَمِيْنِۙ٩٠
Wa ammā in kāna min aṣḥābil-yamīn(i).
[90]
また、もし右側の徒¹の一人だったのであれば、
1 「右側の徒」については、アーヤ*8-9の訳注を参照。
فَسَلٰمٌ لَّكَ مِنْ اَصْحٰبِ الْيَمِيْنِۗ٩١
Fa salāmul laka min aṣḥābil-yamīn(i).
[91]
(彼には、こう言われる。)「あなたに平安を¹。(あなたは、)右側の徒の一人である」。
1 「あなたに平安を」については、雷鳴章24の訳注も参照。
وَاَمَّآ اِنْ كَانَ مِنَ الْمُكَذِّبِيْنَ الضَّاۤلِّيْنَۙ٩٢
Wa ammā in kāna minal-mukażżibīnaḍ-ḍāllīn(a).
[92]
そして、もし(復活を)噓呼ばわりする、迷った者の類いだったのであれば、
فَنُزُلٌ مِّنْ حَمِيْمٍۙ٩٣
Fa nuzulum min ḥamīm(in).
[93]
(彼には)煮えたぎる湯からの御もてなし¹と、
1 この「御もてなし」については、洞窟章102の訳注を参照。
وَّتَصْلِيَةُ جَحِيْمٍ٩٤
Wa taṣliyatu jaḥīm(in).
[94]
火獄の火炙りがある。
اِنَّ هٰذَا لَهُوَ حَقُّ الْيَقِيْنِۚ٩٥
Inna hāżā lahuwal-ḥaqqul-yaqīn(i).
[95]
(使徒*よ、)本当にこれこそは、まさに確固たる真理なのだ。
فَسَبِّحْ بِاسْمِ رَبِّكَ الْعَظِيْمِ ࣖ٩٦
Fa sabbiḥ bismi rabbikal-‘aẓīm(i).
[96]
ならば、この上なく偉大なあなたの主*の御名と共に、(かれを)称え*よ。