Surah Al-Qamar

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بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ
اِقْتَرَبَتِ السَّاعَةُ وَانْشَقَّ الْقَمَرُ١
Iqtarabatis-sā‘atu wansyaqqal-qamar(u).
[1] (復活の)時は近づき¹、月は(真っ二つに)裂けた²。
1 「復活の日*の近さ」については、蜜蜂章1,預言者*たち章1の訳注を参照。 2 大半の解釈学者は、これが預言者*の生前、彼に起こった奇跡の一つだという見解を示している (アッ=シャウカーニー5:158-159参照)。預言者*がクライシュ族の不信仰者*たちの要望に応じ、月を割って見せたことは、数多くの真正*な伝承経路によって伝えられている(イブン・カスィール7:472参照)。

وَاِنْ يَّرَوْا اٰيَةً يُّعْرِضُوْا وَيَقُوْلُوْا سِحْرٌ مُّسْتَمِرٌّ٢
Wa iy yarau āyatay yu‘riḍū wa yaqūlū siḥrum mustamirr(un).
[2] そして、たとえ(使徒*ムハンマド*の正しさを示す)御徴を目にしても、彼ら(シルク*の徒)は(その信仰に)背を向け、言うのだ。「(これは、)消え失せる魔術¹である」。
1 「強力な魔術」という意味に解釈することも可能(アル=バガウィー4:322参照)。

وَكَذَّبُوْا وَاتَّبَعُوْٓا اَهْوَاۤءَهُمْ وَكُلُّ اَمْرٍ مُّسْتَقِرٌّ٣
Wa każżabū wattaba‘ū ahwā'ahum wa kullu amrim mustaqirr(un).
[3] また、彼らは(預言者*を)噓つき呼ばわりし、自分たちの私欲に従った。事の全ては(復活の日*)、決着を見る。

وَلَقَدْ جَاۤءَهُمْ مِّنَ الْاَنْۢبَاۤءِ مَا فِيْهِ مُزْدَجَرٌۙ٤
Wa laqad jā'ahum minal-ambā'i mā fīhi muzdajar(un).
[4] 彼らのもとには、(使徒*を噓つき呼ばわりした、過去の民の)消息である、戒めを(十分に)含んだものが、確かに到来したのだ。

حِكْمَةٌ ۢ بَالِغَةٌ فَمَا تُغْنِ النُّذُرُۙ٥
Ḥikmatum bāligatun famā tugnin-nużur(u).
[5] (それは)確固とした英知である。そして(それに背を向ける者たちに)警告が役立つことなど、あろうか?

فَتَوَلَّ عَنْهُمْ ۘ يَوْمَ يَدْعُ الدَّاعِ اِلٰى شَيْءٍ نُّكُرٍۙ٦
Fa tawalla ‘anhum, yauma yad‘ud-dā‘i ilā syai'in nukur(in).
[6] ゆえに(使徒*よ)、彼らに背を向けるがよい。呼ぶ者¹が、創造を絶すること²へと呼ぶ(復活の)日、
1 角笛に吹き込む、天使*イスラーフィールのこと(アル=バガウィー4:322参照)。家畜章73と、その訳注も参照。 2 創造を絶するほどに恐ろしい、清算の場のこと(ムヤッサル528頁参照)。

خُشَّعًا اَبْصَارُهُمْ يَخْرُجُوْنَ مِنَ الْاَجْدَاثِ كَاَنَّهُمْ جَرَادٌ مُّنْتَشِرٌۙ٧
Khusysya‘an abṣāruhum yakhrujūna minal-ajdāṡi ka'annahum jarādum muntasyir(un).
[7] 彼らは怖気づいた眼をしつつ、まるで散らばるイナゴのように墓場から出て来る、

مُّهْطِعِيْنَ اِلَى الدَّاعِۗ يَقُوْلُ الْكٰفِرُوْنَ هٰذَا يَوْمٌ عَسِرٌ٨
Muhṭi‘īna ilad-dā‘(i), yaqūlul-kāfirūna hāżā yaumun ‘asir(un).
[8] 呼ぶ者のところへ、あたふたと。不信仰者*たちは、言う。「これは過酷な日だ」。

۞ كَذَّبَتْ قَبْلَهُمْ قَوْمُ نُوْحٍ فَكَذَّبُوْا عَبْدَنَا وَقَالُوْا مَجْنُوْنٌ وَّازْدُجِرَ٩
Każżabat qablahum qaumu nūḥin fakażżabū ‘abdanā wa qālū majnūnuw wazdujir(a).
[9] 彼ら(マッカ*の不信仰者*ら)以前、ヌーフ*の民が噓つき呼ばわりした。彼らは、われら*の僕(ヌーフ*)を噓つき呼ばわりして、「(彼は)憑かれた者¹だ」と言い、(ヌーフ*は布教することを)戒められた²。
1 アル=ヒジュル章6「憑かれた者」の訳注を参照。 2 関連するアーヤとして、詩人たち章116も参照(イブン・カスィール7:476参照)。

فَدَعَا رَبَّهٗٓ اَنِّيْ مَغْلُوْبٌ فَانْتَصِرْ١٠
Fa da‘ā rabbahū annī maglūbun fantaṣir.
[10] それで彼(ヌーフ*)は、「本当に私は抑圧された者です。(私を)お助け下さい¹」と、その主*に祈った。
1 信仰者たち章26、ヌーフ*章26-27も参照。

فَفَتَحْنَآ اَبْوَابَ السَّمَاۤءِ بِمَاۤءٍ مُّنْهَمِرٍۖ١١
Fa fataḥnā abwābas-samā'i bimā'im munhamir(in).
[11] こうしてわれら*は降りつける(大量の雨)水と共に、天の諸門を開いた。

وَّفَجَّرْنَا الْاَرْضَ عُيُوْنًا فَالْتَقَى الْمَاۤءُ عَلٰٓى اَمْرٍ قَدْ قُدِرَ ۚ١٢
Wa fajjarnal-arḍa ‘uyūnan faltaqal-mā'u ‘alā amrin qad qudir(a).
[12] また、大地を(沢山の)泉で噴き出させ、(天と大地からの)水は既に定められていた命令の通り、合流した。

وَحَمَلْنٰهُ عَلٰى ذَاتِ اَلْوَاحٍ وَّدُسُرٍۙ١٣
Wa ḥamalnāhu ‘alā żāti alwāḥiw wa dusur(in).
[13] そして、われら*は彼(と、彼と共にあった者たち)を、数々の板と釘からなる者(船)で運んだ。¹
1 この時の様子は、フード*章42-48、信仰者たち章27-29に詳しい。

تَجْرِيْ بِاَعْيُنِنَاۚ جَزَاۤءً لِّمَنْ كَانَ كُفِرَ١٤
Tajrī bi'a‘yuninā, jazā'al liman kāna kufir(a).
[14] それは信じてはもらえなかった者(ヌーフ*)への報いとして、われら*の眼差しのもと¹走った。
1 「眼差しのもと」については、ター・ハー章39とその訳注を参照。

وَلَقَدْ تَّرَكْنٰهَآ اٰيَةً فَهَلْ مِنْ مُّدَّكِرٍ١٥
Wa laqat taraknāhā āyatan fahal mim muddakir(in).
[15] われら*は確かに、それを(われら*の力を証明する)御徴として残しておいた。では、(この話から)教訓を得る者はいるのか?

فَكَيْفَ كَانَ عَذَابِيْ وَنُذُرِ١٦
Fa kaifa kāna ‘ażābī wa nużur(i).
[16] わが懲罰と警告は、いかなるものだったか?

وَلَقَدْ يَسَّرْنَا الْقُرْاٰنَ لِلذِّكْرِ فَهَلْ مِنْ مُّدَّكِرٍ١٧
Wa laqad yassarnal-qur'āna liż-żikri fahal mim muddakir(in).
[17] われら*は確かにクルアーン*を、教訓を得るに容易い者とした¹。では、(それから)教訓を得る者はいるのか?
1 アッラー*は、クルアーン*の言葉については読誦と暗記という面から、そしてその意味については理解と熟慮(じゅくりょ)という面において、易しいものとされた(ムヤッサル529頁参照)。

كَذَّبَتْ عَادٌ فَكَيْفَ كَانَ عَذَابِيْ وَنُذُرِ١٨
Każżabat ‘ādun fa kaifa kāna ‘ażābī wa nużur(i).
[18] アード*は、(フード*を)噓つき呼ばわりした。わが懲罰と警告は、いかなるものだったか?

اِنَّآ اَرْسَلْنَا عَلَيْهِمْ رِيْحًا صَرْصَرًا فِيْ يَوْمِ نَحْسٍ مُّسْتَمِرٍّۙ١٩
Innā arsalnā ‘alaihim rīḥan ṣarṣaran fī yaumi naḥsim mustamirr(in).
[19] 本当にわれら*は、立て続く大難の日¹に、彼らに対して咆哮の暴風を送った。
1 この「大難の日」については、真実章5-7も参照。

تَنْزِعُ النَّاسَۙ كَاَنَّهُمْ اَعْجَازُ نَخْلٍ مُّنْقَعِرٍ٢٠
Tanzi‘un-nās(a), ka'annahum a‘jāzu nakhlim munqa‘ir(in).
[20] 人々を、引っこ抜かれたナツメヤシの木の根幹のように、根こそぎにする(暴風を)。

فَكَيْفَ كَانَ عَذَابِيْ وَنُذُرِ٢١
Fa kaifa kāna ‘ażābī wa nużur(i).
[21] わが懲罰と警告は、いかなるものだったか?

وَلَقَدْ يَسَّرْنَا الْقُرْاٰنَ لِلذِّكْرِ فَهَلْ مِنْ مُّدَّكِرٍ ࣖ٢٢
Wa laqad yassarnal-qur'āna liż-żikri fahal mim muddakir(in).
[22] われら*は確かにクルアーン*を、教訓を得るに容易い者とした¹。では、(それから)教訓を得る者はいるのか?
1 アーヤ*17の訳注を参照。

كَذَّبَتْ ثَمُوْدُ بِالنُّذُرِ٢٣
Każżabat ṡamūdu bin-nużur(i).
[23] サムード*は、(サーリフ*からの)警告を嘘呼ばわりした。

فَقَالُوْٓا اَبَشَرًا مِّنَّا وَاحِدًا نَّتَّبِعُهٗٓ ۙاِنَّآ اِذًا لَّفِيْ ضَلٰلٍ وَّسُعُرٍ٢٤
Fa qālū abasyaram minnā wāḥidan nattabi‘uh(ū), innā iżal lafī ḍalāliw wa su‘ur(in).
[24] 彼らは言った。「一体、私たちの内の一介の人間に、私たちが従うとでも?そうしたら、本当に私たちは、迷いと狂気の中にあることになる。

ءَاُلْقِيَ الذِّكْرُ عَلَيْهِ مِنْۢ بَيْنِنَا بَلْ هُوَ كَذَّابٌ اَشِرٌ٢٥
A'ulqiyaż-żikru ‘alaihi mim baininā bal huwa każżābun asyir(un).
[25] 一体、私たちを差しおいて、彼の上に教訓(啓示)が下されたと?いや、彼は大噓つきで自惚れ屋だ」。

سَيَعْلَمُوْنَ غَدًا مَّنِ الْكَذَّابُ الْاَشِرُ٢٦
Saya‘lamūna gadam manil-każżābul-asyir(u).
[26] 近い日に、彼らは知るであろう。誰が大噓つきで自惚れ屋かを。

اِنَّا مُرْسِلُوا النَّاقَةِ فِتْنَةً لَّهُمْ فَارْتَقِبْهُمْ وَاصْطَبِرْۖ٢٧
Innā mursilun-nāqati fitnatal lahum fartaqibhum waṣṭabir.
[27] 本当にわれらは、彼らへの試練ゆえ、雌ラクダを送る者である。ゆえに(サーリフ*よ、)彼ら(に何が起こるか)を見守り、よく忍耐*せよ。¹
1 この話については高壁章73とその訳注、フード*章64-68、詩人たち章155-157,太陽章13-14も参照。

وَنَبِّئْهُمْ اَنَّ الْمَاۤءَ قِسْمَةٌ ۢ بَيْنَهُمْۚ كُلُّ شِرْبٍ مُّحْتَضَرٌ٢٨
Wa nabbi'hum annal-mā'a qismatum bainahum, kullu syirbim muḥtaḍar(un).
[28] そして彼らに伝えるのだ。水は、彼ら(と雌ラクダ)の間で(、隔日の)割り当てであるということを。水の各々の順番は、(順番の主にのみ)立ち会われるものである¹。
1 ただし、ラクダが水を飲む日には、人々はその乳を飲んだとされる(イブン・カスィール7:479参照)。

فَنَادَوْا صَاحِبَهُمْ فَتَعَاطٰى فَعَقَرَ٢٩
Fa nādau ṣāḥibahum fa ta‘āṭā fa ‘aqar(a).
[29] こうして彼らは(、雌ラクダを殺すために)自分たちの仲間¹を呼び、彼は(それを)捕まえ、(その)腱を切った²。
1 これは、クッダール・ブン・サーリフという名の男とされる(前掲書、同頁参照)。 2 「腱を切った」という表現については、高壁章77の訳注を参照。また、彼らが雌ラクダを殺すことになった背景についても、同アーヤ*の訳注を参照。

فَكَيْفَ كَانَ عَذَابِيْ وَنُذُرِ٣٠
Fakaifa kāna ‘ażābī wa nużur(i).
[30] わが懲罰と警告は、いかなるものだったか?

اِنَّآ اَرْسَلْنَا عَلَيْهِمْ صَيْحَةً وَّاحِدَةً فَكَانُوْا كَهَشِيْمِ الْمُحْتَظِرِ٣١
Innā arsalnā ‘alaihim ṣaiḥataw wāḥidatan fa kānū kahasyīmil-muḥtaẓir(i).
[31] 本当にわれら*は、彼らに轟きの一声¹を送り、それで彼らは柵の枯れ枝のようになってしまった。
1 サムード*に下された懲罰の詳細については、頻出名・用語解説の「サムード*」の項を参照。

وَلَقَدْ يَسَّرْنَا الْقُرْاٰنَ لِلذِّكْرِ فَهَلْ مِنْ مُّدَّكِرٍ٣٢
Wa laqad yassarnal-qur'āna liż-żikri fahal mim muddakir(in).
[32] われら*は、確かにクルアーン*を、教訓を得るに容易いものとした¹。では、(それから)教訓を得る者はいるのか?
1 アーヤ*17の訳注を参照。

كَذَّبَتْ قَوْمُ لُوْطٍ ۢبِالنُّذُرِ٣٣
Każżabat qaumu lūṭim bin-nużur(i).
[33] ルート*の民は、警告を、嘘呼ばわりした。

اِنَّآ اَرْسَلْنَا عَلَيْهِمْ حَاصِبًا اِلَّآ اٰلَ لُوْطٍ ۗنَجَّيْنٰهُمْ بِسَحَرٍۙ٣٤
Innā arsalnā ‘alaihim ḥāṣiban illā āla lūṭ(in), najjaināhum bisaḥar(in).
[34] 本当にわれら*は彼らに、石を降らす風を送った。ルートの一族は別で、われら*は明け方に、彼ら(ルート*の一族)を救い出した。¹
1 この時の様子と、ルート*の一族の中で、彼の妻だけは助からなかったということは、高壁章80-84,フード*章69-83,詩人たち章160-175に詳しい。

نِّعْمَةً مِّنْ عِنْدِنَاۗ كَذٰلِكَ نَجْزِيْ مَنْ شَكَرَ٣٥
Ni‘matam min ‘indinā, każālika najzī man syakar(a).
[35] われら*のもとからの、恩恵ゆえに。(ルート*とその一族にそうしたのと)同様に、われら*は(われら*を信仰し、)感謝した者に報いるのだ。

وَلَقَدْ اَنْذَرَهُمْ بَطْشَتَنَا فَتَمَارَوْا بِالنُّذُرِ٣٦
Wa laqad anżarahum baṭsyatanā fa tamārau bin-nużur(i).
[36] 彼(ルート*)は確かに彼らに対し、われら*の(懲罰による)制圧を警告した。にも関わらず、彼らは警告に対して懐疑的だったのだ。

وَلَقَدْ رَاوَدُوْهُ عَنْ ضَيْفِهٖ فَطَمَسْنَآ اَعْيُنَهُمْ فَذُوْقُوْا عَذَابِيْ وَنُذُرِ٣٧
Wa laqad rāwadūhu ‘an ḍaifihī fa ṭamasnā a‘yunahum fa żūqū ‘ażābī wa nużur(i).
[37] 彼らは確かに彼(ルート*)を、その客人(への醜行を求めるが(ゆえに、言いくるめようと試みた¹。それでわれら*は、彼らの眼を消したのである。(彼らには、こう言われた。)「わが懲罰と警告を味わうがよい」。
1 この時の様子については、高壁章80-82,フード*章77-81,詩人たち章165-169,蟻章54-56,蜘蛛章28-30とそれらの訳注を参照。

وَلَقَدْ صَبَّحَهُمْ بُكْرَةً عَذَابٌ مُّسْتَقِرٌّۚ٣٨
Wa laqad ṣabbaḥahum bukratan ‘ażābum mustaqirr(un).
[38] そして早朝には、恒久的な懲罰が確かに、彼らを襲った。

فَذُوْقُوْا عَذَابِيْ وَنُذُرِ٣٩
Fa żūqū ‘ażābī wa nużur(i).
[39] (彼らには、こう言われた。)「わが懲罰と警告を味わうがよい」。

وَلَقَدْ يَسَّرْنَا الْقُرْاٰنَ لِلذِّكْرِ فَهَلْ مِنْ مُّدَّكِرٍ ࣖ٤٠
Wa laqad yassarnal-qur'āna liż-żikri fahal mim muddakir(in).
[40] われら*は確かにクルアーン*を、教訓を得るに容易い者とした¹。では、(それから)教訓を得る者はいるのか?
1 アーヤ*17の訳注を参照。

وَلَقَدْ جَاۤءَ اٰلَ فِرْعَوْنَ النُّذُرُۚ٤١
Wa laqad jā'a āla fir‘aunan-nużur(u).
[41] フィルアウン*の一族のもとに、(不信仰に対する懲罰の)警告が、確かに到来した。

كَذَّبُوْا بِاٰيٰتِنَا كُلِّهَا فَاَخَذْنٰهُمْ اَخْذَ عَزِيْزٍ مُّقْتَدِرٍ٤٢
Każżabū bi'āyātinā kullihā fa'akhażnāhum akhża ‘azīzim muqtadir(in).
[42] 彼らは、われら*の御徴¹を全て噓つき呼ばわりしたので、われら*は彼らを偉力ならびなく全能なる者の掌握で捕らえた。
1 この「御徴」とは、アッラーの唯一性*と、預言者*たちの使命を証明する根拠のこと(ムヤッサル530頁参照)。

اَكُفَّارُكُمْ خَيْرٌ مِّنْ اُولٰۤىِٕكُمْ اَمْ لَكُمْ بَرَاۤءَةٌ فِى الزُّبُرِۚ٤٣
Akuffārukum khairum min ulā'ikum am lakum barā'atun fiz-zubur(i).
[43] 一体(クライシュ族*よ、)あなた方の不信仰者*たちの方が、それらの(滅ぼされた不信仰)者*たちよりも優れているのか?それとも、あなた方には書巻¹の中に(、アッラー*の懲罰からの)無事が(保証されて)あるというのか?
1 この「書巻」とは、啓典のこと(前掲書、同頁参照)。

اَمْ يَقُوْلُوْنَ نَحْنُ جَمِيْعٌ مُّنْتَصِرٌ٤٤
Am yaqūlūna naḥnu jamī‘um muntaṣir(un).
[44] いや、彼らは「私たちは全員、勝利者である」などと言うのか?

سَيُهْزَمُ الْجَمْعُ وَيُوَلُّوْنَ الدُّبُرَ٤٥
Sayuhzamul-jam‘u wa yuwallūnad-dubur(a).
[45] (不信仰者*の)集団はじきに打倒され、背中を見せ(敗走す)るのだ。¹
1 これは後に、バドルの戦い*で実現した(前掲書、同頁参照)。

بَلِ السَّاعَةُ مَوْعِدُهُمْ وَالسَّاعَةُ اَدْهٰى وَاَمَرُّ٤٦
Balis-sā‘atu mau‘iduhum was-sā‘atu adhā wa amarr(u).
[46] いや、(復活の)時が、彼らの約束の時。その時はより過酷で、苦痛にあふれている。

اِنَّ الْمُجْرِمِيْنَ فِيْ ضَلٰلٍ وَّسُعُرٍۘ٤٧
Innal-mujrimīna fī ḍalāliw wa su‘ur(in).
[47] 本当に罪悪者たちは、迷いと烈火の中にある。

يَوْمَ يُسْحَبُوْنَ فِى النَّارِ عَلٰى وُجُوْهِهِمْۗ ذُوْقُوْا مَسَّ سَقَرَ٤٨
Yauma yusḥabūna fin-nāri ‘alā wujūhihim, żūqū massa saqar(a).
[48] その日、彼らは顔から逆さまになって業火の中を引きずられ、(こう言われる、)「焦炎の感触を味わうがよい」。

اِنَّا كُلَّ شَيْءٍ خَلَقْنٰهُ بِقَدَرٍ٤٩
Innā kulla syai'in khalaqnāhu biqadar(in).
[49] 本当にわれら*は全てのものを、定と共に創造した¹。
1 つまり、アッラー*の英知に基づいた規格において創造した。あるいは、守られし碑板*に記された定命と共に創造した(アル=バイダーウィー5:270参照)。

وَمَآ اَمْرُنَآ اِلَّا وَاحِدَةٌ كَلَمْحٍ ۢبِالْبَصَرِ٥٠
Wa mā amrunā illā wāḥidatun kalamḥim bil-baṣar(i).
[50] そして、われら*の命令は一瞥のごとき(「あれ」という)一言¹に過ぎない。
1 雌牛章117,蜜蜂章40,ヤー・スィーン章82,赦し深いお方章68なども参照。

وَلَقَدْ اَهْلَكْنَآ اَشْيَاعَكُمْ فَهَلْ مِنْ مُّدَّكِرٍ٥١
Wa laqad ahlaknā asy-yā‘akum fahal mim muddakir(in).
[51] われら*は、確かに(不信仰だった)彼らの同類たちを滅ぼした。では、(そのことから)教訓を得る者はいるのか?

وَكُلُّ شَيْءٍ فَعَلُوْهُ فِى الزُّبُرِ٥٢
Wa kullu syai'in fa‘alūhu fiz-zubur(i).
[52] そして彼らがした全ての物事は、書巻の中に(記録されて)あり、

وَكُلُّ صَغِيْرٍ وَّكَبِيْرٍ مُّسْتَطَرٌ٥٣
Wa kullu ṣagīriw wa kabīrim mustaṭar(un).
[53] 小さいことも、大きいことも、全て書き留められているのだ。¹
1 天使*たちが、現世での行いの帳簿(ちょうぼ)に記録している、ということ(ムヤッサル531頁参照)。 高壁章8の訳注も参照。

اِنَّ الْمُتَّقِيْنَ فِيْ جَنّٰتٍ وَّنَهَرٍۙ٥٤
Innal-muttaqīna fī jannātiw wa nahar(in).
[54] 本当に敬虔な*者たちは(復活の日*)、楽園と河川のもとにある。

فِيْ مَقْعَدِ صِدْقٍ عِنْدَ مَلِيْكٍ مُّقْتَدِرٍ ࣖ٥٥
Fī maq‘adi ṣidqin ‘inda malīkim muqtadir(in).
[55] 全能の王者(アッラー*)の御許の、善き座り場所に。