Surah Al-Mu’min

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بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ
حٰمۤ ۚ١
Ḥā mīm.
[1] ハー・ミーム¹。
1 これらの文字については、頻出名・用語解説の「クルアーン*の冒頭に現れる文字群*」参照。

تَنْزِيْلُ الْكِتٰبِ مِنَ اللّٰهِ الْعَزِيْزِ الْعَلِيْمِۙ٢
Tanzīlul-kitābi minallāhil-‘azīzil-‘alīm(i).
[2] (このクルアーン*は、)偉力ならびなく*、英知あふれる*アッラー*からの、啓典の降示。

غَافِرِ الذَّنْۢبِ وَقَابِلِ التَّوْبِ شَدِيْدِ الْعِقَابِ ذِى الطَّوْلِۗ لَآ اِلٰهَ اِلَّا هُوَ ۗاِلَيْهِ الْمَصِيْرُ٣
Gāfiriż-żambi wa qābilit-taubi syadīdil-‘iqābi żiṭ-ṭaul(i), lā ilāha illā huw(a), ilaihil-maṣīr(u).
[3] 罪をお赦しになり、悔悟をお受け入れになり、懲罰が厳しく、豊潤さの主である(アッラー*からの降示)。かれ以外に、崇拝*すべきいかなるものもない。かれにこそ、(復活の日*における、全創造の)行き先はある。

مَا يُجَادِلُ فِيْٓ اٰيٰتِ اللّٰهِ اِلَّا الَّذِيْنَ كَفَرُوْا فَلَا يَغْرُرْكَ تَقَلُّبُهُمْ فِى الْبِلَادِ٤
Mā yujādilu fī āyātillāhi illal-lażīna kafarū falā yagrurka taqallubuhum fil-bilād(i).
[4] 不信仰に陥った者*たち以外、アッラー*の御徴¹に(盾ついて)議論したりはしない。ならば(使徒*よ)、不信仰者*らが(商売や現世での享楽に)勤しんでいるのに、惑わされてはならない。
1 この「御徴」はクルアーン*や、アッラーの唯一性*の証拠のこと(ムヤッサル467頁参照)。

كَذَّبَتْ قَبْلَهُمْ قَوْمُ نُوْحٍ وَّالْاَحْزَابُ مِنْۢ بَعْدِهِمْ ۖوَهَمَّتْ كُلُّ اُمَّةٍۢ بِرَسُوْلِهِمْ لِيَأْخُذُوْهُ وَجَادَلُوْا بِالْبَاطِلِ لِيُدْحِضُوْا بِهِ الْحَقَّ فَاَخَذْتُهُمْ ۗفَكَيْفَ كَانَ عِقَابِ٥
Każżabat qablahum qaumu nūḥiw wal-aḥzābu mim ba‘dihim, wa hammat kullu ummatim birasūlihim liya'khużūhu wa jādalū bil-bāṭili liyudḥiḍū bihil-ḥaqqa fa'akhażtuhum, fa kaifa kāna ‘iqāb(i).
[5] 彼ら以前にも、ヌーフ*の民とその後の徒党が、(使徒*たちを)噓つき呼ばわりしたのだ。そして(それら)全ての共同体は、その使徒*を捕らえ(て殺害し)ようと意図し、真理を消し去るべく虚妄によって議論した。それでわれら*は、彼らを(懲罰で)捕らえたのだ。わが懲罰は、いかなるものだったか?

وَكَذٰلِكَ حَقَّتْ كَلِمَتُ رَبِّكَ عَلَى الَّذِيْنَ كَفَرُوْٓا اَنَّهُمْ اَصْحٰبُ النَّارِۘ٦
Wa każālika ḥaqqat kalimatu rabbika ‘alal-lażīna kafarū annahum aṣḥābun-nār(i).
[6] 同様に不信仰に陥った者*たちには、彼らは業火の住人であるという、あなたの主*の御言葉が確定したのである。

اَلَّذِيْنَ يَحْمِلُوْنَ الْعَرْشَ وَمَنْ حَوْلَهٗ يُسَبِّحُوْنَ بِحَمْدِ رَبِّهِمْ وَيُؤْمِنُوْنَ بِهٖ وَيَسْتَغْفِرُوْنَ لِلَّذِيْنَ اٰمَنُوْاۚ رَبَّنَا وَسِعْتَ كُلَّ شَيْءٍ رَّحْمَةً وَّعِلْمًا فَاغْفِرْ لِلَّذِيْنَ تَابُوْا وَاتَّبَعُوْا سَبِيْلَكَ وَقِهِمْ عَذَابَ الْجَحِيْمِ٧
Allażīna yaḥmilūnal-‘arsya wa man ḥaulahū yusabbiḥūna biḥamdi rabbihim wa yu'minūna bihī wa yastagfirūna lil-lażīna āmanū, rabbanā wasi‘ta kulla syai'ir raḥmataw wa ‘ilman fagfir lil-lażīna tābū wattaba‘ū sabīlaka wa qihim ‘ażābal-jaḥīm(i).
[7] 御座を運ぶ者たちと、その周りにいる者¹は、彼らの主*の称賛*と共に(かれを)称え*、かれを信じる。そして、信仰する者たちのために(こう言って)赦しを乞う。「我らが主*よ、あなたは全てのものを、慈悲と知識で網羅されました。ですから、悔悟し、あなたの道(イスラーム*)に従った者たちをお赦しになり、彼らを火獄の懲罰からお守り下さい。
1 いずれも天使*たちのこと(ムヤッサル467頁参照)。「御座」に関しては、高壁章54の訳注を参照。

رَبَّنَا وَاَدْخِلْهُمْ جَنّٰتِ عَدْنِ ِۨالَّتِيْ وَعَدْتَّهُمْ وَمَنْ صَلَحَ مِنْ اٰبَاۤىِٕهِمْ وَاَزْوَاجِهِمْ وَذُرِّيّٰتِهِمْ ۗاِنَّكَ اَنْتَ الْعَزِيْزُ الْحَكِيْمُۙ٨
Rabbanā wa adkhilhum jannāti ‘adninil-latī wa‘attahum wa man ṣalaḥa min ābā'ihim wa azwājihim wa żurriyyātihim, innaka antal ‘azīzul-ḥakīm(u).
[8] 我らが主*よ、そして彼らを、あなたが彼らにお約束になった永久の楽園にお入れ下さい、また、彼らの父祖、妻、子孫たちの内、正しかった者*を。本当にあなたこそは、偉力ならびない*お方、英知あふれる*お方なのですから。

وَقِهِمُ السَّيِّاٰتِۗ وَمَنْ تَقِ السَّيِّاٰتِ يَوْمَىِٕذٍ فَقَدْ رَحِمْتَهٗ ۗوَذٰلِكَ هُوَ الْفَوْزُ الْعَظِيْمُ ࣖ٩
Wa qihimus-sayyi'āt(i), wa man taqis-sayyi'āti yauma'iżin faqad raḥimtah(ū), wa żālika huwal-fauzul-‘aẓīm(u).
[9] また、彼らを悪(の結末)から、お守り下さい。あなたが(復活の)その日、悪からお守りになる者こそは、あなたが確かにご慈悲をかけられた者。それこそは、偉大な勝利です」。

اِنَّ الَّذِيْنَ كَفَرُوْا يُنَادَوْنَ لَمَقْتُ اللّٰهِ اَكْبَرُ مِنْ مَّقْتِكُمْ اَنْفُسَكُمْ اِذْ تُدْعَوْنَ اِلَى الْاِيْمَانِ فَتَكْفُرُوْنَ١٠
Innal-lażīna kafarū yunādauna lamaqtullāhi akbaru mim maqtikum anfusakum iż tad‘ūna ilal-īmāni fatakfurūn(a).
[10] 本当に不信仰に陥った者*たちには、(地獄の番人から、こう)呼びかけられる。「(現世で)あなた方が信仰へと呼びかけられ、それを否定していた時の(あなた方に対する)アッラー*の憎悪こそは、(今の)あなた方の自分自身に対する憎悪よりも、大きかったのだぞ」。¹
1 不信仰者*たちはいざ地獄を目にすると、自分自身をこれ以上ないほど、激しく憎悪する。しかし現世で不信仰に固執(こしつ)していた彼らに対するアッラー*の憎悪こそは、それよりも激しい憎悪だったのである(ムヤッサル468頁参照)。

قَالُوْا رَبَّنَآ اَمَتَّنَا اثْنَتَيْنِ وَاَحْيَيْتَنَا اثْنَتَيْنِ فَاعْتَرَفْنَا بِذُنُوْبِنَا فَهَلْ اِلٰى خُرُوْجٍ مِّنْ سَبِيْلٍ١١
Qālū rabbanā amattanaṡnataini wa aḥyaitanaṡnataini fa‘tarafnā biżunūbinā fa hal ilā khurūjim min sabīl(in).
[11] 彼ら(不信仰者*たち)は言う。「我らが主*よ、あなたは私たちに二度、死を与えられ、二度、生を与えられました¹。そして私たちは(今)、自分たちの罪を認めました。ですので、(私たちが地獄から)出る術はありますでしょうか?」²
1 一度目の「死」は、魂を吹き込まれる前の精液だった状態で、二度目の「死」は、現世での人生の終わり。また一度目の「生」は現世での誕生、二度目の「生」は死後の復活のこと(前掲書、同頁参照)。 2 もちろん、現世に戻ることは叶わない。家畜章27-28、高壁章53、イブラーヒーム*章44、信仰者たち章99-100、アッ=サジダ*章12、創成者*章37、相談章44、偽信者*たち章10-11も参照。

ذٰلِكُمْ بِاَنَّهٗٓ اِذَا دُعِيَ اللّٰهُ وَحْدَهٗ كَفَرْتُمْۚ وَاِنْ يُّشْرَكْ بِهٖ تُؤْمِنُوْا ۗفَالْحُكْمُ لِلّٰهِ الْعَلِيِّ الْكَبِيْرِ١٢
Żālikum bi'annahū iżā du‘iyallāhu waḥdahū kafartum, wa iy yusyrak bihī tu'minū, fal-ḥukmu lillāhil-‘aliyyil-kabīr(i).
[12] (不信仰者*たちよ、)それ(地獄の懲罰)はあなた方が、アッラー*だけが呼ばれた時¹には否定し、かれに同位者が並べられれば信じていたからなのだ。(全ての)裁決は、至高で*大いなる*アッラーにこそ属する。
1 アッラーの唯一性*と、かれのみゆえの善行へと招かれた時、ということ(前掲書、同頁参照)。

هُوَ الَّذِيْ يُرِيْكُمْ اٰيٰتِهٖ وَيُنَزِّلُ لَكُمْ مِّنَ السَّمَاۤءِ رِزْقًا ۗوَمَا يَتَذَكَّرُ اِلَّا مَنْ يُّنِيْبُ١٣
Huwal-lażī yurīkum āyātihī wa yunazzilu lakum minas-samā'i rizqā(n), wa mā yatażakkaru illā may yunīb(u).
[13] (人々よ、)かれはあなた方に(、創造の完全さを示す)その御徴をお見せになり、天からあなた方に糧を下されるお方。そして、よく(悔悟して)立ち返る者以外、教訓を受けることはない。

فَادْعُوا اللّٰهَ مُخْلِصِيْنَ لَهُ الدِّيْنَ وَلَوْ كَرِهَ الْكٰفِرُوْنَ١٤
Fad‘ullāha mukhliṣīna lahud-dīna wa lau karihal-kāfirūn(a).
[14] だから、アッラー*だけに真摯に崇拝*行為を捧げつつ¹、祈(り、崇拝*す)るのだ。たとえ不信仰者*たちが、(それを)嫌ったとしても。
1 「アッラー*だけに真摯に崇拝*行為を捧げる」ことについては、婦人章146の訳注を参照。

رَفِيْعُ الدَّرَجٰتِ ذُو الْعَرْشِۚ يُلْقِى الرُّوْحَ مِنْ اَمْرِهٖ عَلٰى مَنْ يَّشَاۤءُ مِنْ عِبَادِهٖ لِيُنْذِرَ يَوْمَ التَّلَاقِۙ١٥
Rafī‘ud-darajāti żul-‘arsy(i), yulqir-rūḥa min amrihī ‘alā may yasyā'u min ‘ibādihī liyunżira yaumat-talāq(i).
[15] (アッラー*は)位高きお方、御座¹の主、かれは会合の日²を警告するため、その僕たちの内からお望みの者に、そのご命令によって、魂³を投げかけられる。
1 「御座」に関しては、高壁章54の訳注を参照。 2 先代と後代の者が一同に会する、復活の日*のこと(ムヤッサル468頁参照)。 3 この「魂」とは、啓示のこと。肉体が魂によって生を受けるように、心は啓示によって生を受けるため(アル=バガウィー4:108参照)。

يَوْمَ هُمْ بٰرِزُوْنَ ۚ لَا يَخْفٰى عَلَى اللّٰهِ مِنْهُمْ شَيْءٌ ۗلِمَنِ الْمُلْكُ الْيَوْمَ ۗ لِلّٰهِ الْوَاحِدِ الْقَهَّارِ١٦
Yauma hum bārizūn(a), lā yakhfā ‘alallāhi minhum syai'(un), limanil-mulkul-yaum(a), lillāhil-wāḥidil-qahhār(i).
[16] 彼らが露わな者たち¹となる、その日を(警告するため)。彼らの(状態や行いの)内、アッラー*から隠れられるものなど、何一つない。(アッラー*は仰せられる。)「今日、王権は誰のものか?」(かれは、自らお答えになる)。「唯一*かつ君臨し給う*アッラー*にこそ、属するのだ²」。
1 その日、彼らを覆い隠すものは、何一つない(イブン・カスィール7:136参照)。家畜章94とその訳注、洞窟章48、預言者*たち章104も参照。 2 家畜章73「かれにこそ王権は属する」の訳注も参照。

اَلْيَوْمَ تُجْزٰى كُلُّ نَفْسٍۢ بِمَا كَسَبَتْ ۗ لَا ظُلْمَ الْيَوْمَ ۗاِنَّ اللّٰهَ سَرِيْعُ الْحِسَابِ١٧
Al-yauma tujzā kullu nafsim bimā kasabat, lā ẓulmal-yaum(a), innallāha sarī‘ul-ḥisāb(i).
[17] この日全ての者は、自らが(現世で)稼いだものによって報われる。この日、不正*はない¹。本当にアッラー*は即座に計算される*お方なのだから。
1 つまり悪行が不当に付け加えられたり、善行が差し引かれたりすることはない(アッ=サァディー735頁参照)。

وَاَنْذِرْهُمْ يَوْمَ الْاٰزِفَةِ اِذِ الْقُلُوْبُ لَدَى الْحَنَاجِرِ كٰظِمِيْنَ ەۗ مَا لِلظّٰلِمِيْنَ مِنْ حَمِيْمٍ وَّلَا شَفِيْعٍ يُّطَاعُۗ١٨
Wa anżirhum yaumal-āzifati iżil-qulūbu ladal-ḥanājiri kāẓimīn(a), mā liẓ-ẓālimīna min ḥamīmiw wa lā syafī‘iy yuṭā‘(u).
[18] (使徒*よ、)心臓が(恐怖ゆえに)喉元にまで達し、沈鬱になる、間近な日¹のことを彼らに警告せよ。不正*者たちには近しい友人もいなければ、受け入れられる執り成し手もいない²。
1 「間近な日」とは、復活の日*のこと。その「近さ」については蜜蜂章1、預言者*たち章1の訳注を参照。 2 復活の日*の「執り成し」については雌牛章48、マルヤム*章87、ター・ハー章109とその訳注を参照。

يَعْلَمُ خَاۤىِٕنَةَ الْاَعْيُنِ وَمَا تُخْفِى الصُّدُوْرُ١٩
Ya‘lamu khā'inatal-a‘yuni wa mā tukhfiṣ-ṣudūr(u).
[19] かれは眼が掠め取るもの¹も、胸が潜める(善いものも悪い)ものもご存知である。
1 見ることを許されないものを、こっそり見ること(アッ=シャウカーニー4:638参照)。

وَاللّٰهُ يَقْضِيْ بِالْحَقِّ ۗوَالَّذِيْنَ يَدْعُوْنَ مِنْ دُوْنِهٖ لَا يَقْضُوْنَ بِشَيْءٍ ۗاِنَّ اللّٰهَ هُوَ السَّمِيْعُ الْبَصِيْرُ ࣖ٢٠
Wallāhu yaqḍī bil-ḥaqq(i), wal-lażīna yad‘ūna min dūnihī lā yaqḍūna bisyai'(in), innallāha huwas-samī‘ul-baṣīr(u).
[20] アッラー*が真理¹で(人々の間を)裁かれるのであり、彼らがかれをよそに祈っている者たちは、何も裁きはしない。本当にアッラー*こそは、よくお聞きになるお方、よくご覧になるお方なのだから。
1 この「真理」とは、公正さのこと(ムヤッサル469頁参照)。

۞ اَوَلَمْ يَسِيْرُوْا فِى الْاَرْضِ فَيَنْظُرُوْا كَيْفَ كَانَ عَاقِبَةُ الَّذِيْنَ كَانُوْا مِنْ قَبْلِهِمْ ۗ كَانُوْا هُمْ اَشَدَّ مِنْهُمْ قُوَّةً وَّاٰثَارًا فِى الْاَرْضِ فَاَخَذَهُمُ اللّٰهُ بِذُنُوْبِهِمْ ۗوَمَا كَانَ لَهُمْ مِّنَ اللّٰهِ مِنْ وَّاقٍ٢١
Awalam yasīrū fil-arḍi fayanẓurū kaifa kāna ‘āqibatul-lażīna kānū min qablihim, kānū hum asyaddu minhum quwwataw wa āṡāran fil-arḍi fa'akhażahumullāhu biżunūbihim, wa mā kāna lahum minallāhi miw wāq(in).
[21] 彼らは地上を旅し、(預言者*たちを噓つき呼ばわりした)彼ら以前の者たちの結末が、どのようなものであったかを見なかったのか?彼ら(以前の者たち)は、彼らよりも力と、大地の建設において強力だった。そしてアッラー*は彼らを、その罪ゆえに(懲罰で)捕らえられ、彼らにはアッラー*(の懲罰)に対してのいかなる守護者もなかったのである。

ذٰلِكَ بِاَنَّهُمْ كَانَتْ تَّأْتِيْهِمْ رُسُلُهُمْ بِالْبَيِّنٰتِ فَكَفَرُوْا فَاَخَذَهُمُ اللّٰهُ ۗاِنَّهٗ قَوِيٌّ شَدِيْدُ الْعِقَابِ٢٢
Żālika bi'annahum kānat ta'tīhim rusuluhum bil-bayyināti fakafarū fa'akhażahumullāh(u), innahū qawiyyun syadīdul-‘iqāb(i).
[22] それは彼らが、自分たちの使徒*が明証を携えて彼らのもとに到来していたのに、不信仰に陥ったからである。それでアッラー*は、彼らを(懲罰で)捕らえられたのだ。本当にかれは強いお方、厳しく懲罰されるお方であられる。

وَلَقَدْ اَرْسَلْنَا مُوْسٰى بِاٰيٰتِنَا وَسُلْطٰنٍ مُّبِيْنٍۙ٢٣
Wa laqad arsalnā mūsā bi'āyātinā wa sulṭānim mubīn(in).
[23] われら*はムーサー*を確かに、われら*の御徴¹と紛れもなき証拠²と共に遣わした。
1 この「御徴」とは、啓示の真実性を証明するもの(前掲書、同頁参照)。夜の旅章101「九つの御徴」の訳注も参照(アル=クルトゥビー15:304参照)。 2 「紛れもない証拠」については、フード*章96の訳注を参照。

اِلٰى فِرْعَوْنَ وَهَامٰنَ وَقَارُوْنَ فَقَالُوْا سٰحِرٌ كَذَّابٌ٢٤
Ilā fir‘auna wa hāmāna wa qārūna faqālū sāḥirun każżāb(un).
[24] フィルアウン*とハーマーン*とカールーン¹へと。すると彼らは言った。「(彼は)大噓つきの魔術師だ」。
1 「ハーマーン」については、物語章6の訳注を、「カールーン」については物語章76-82を参照。

فَلَمَّا جَاۤءَهُمْ بِالْحَقِّ مِنْ عِنْدِنَا قَالُوا اقْتُلُوْٓا اَبْنَاۤءَ الَّذِيْنَ اٰمَنُوْا مَعَهٗ وَاسْتَحْيُوْا نِسَاۤءَهُمْ ۗوَمَا كَيْدُ الْكٰفِرِيْنَ اِلَّا فِيْ ضَلٰلٍ٢٥
Falammā jā'ahum bil-ḥaqqi min ‘indinā qāluqtulū abnā'al-lażīna āmanū ma‘ahū wastaḥyū nisā'ahum, wa mā kaidul-kāfirīna illā fī ḍalāl(in).
[25] そして彼(ムーサー*)がわれら*のもとから、真理を携えて彼らのもとにやって来た時、彼ら(フィルアウン*たち)は言った。「彼と共に信じた者たちの男児を殺し、その女児は生かしておけ¹」。不信仰者*たちの策謀は、無に帰すのである。
1 高壁章127の訳注も参照。

وَقَالَ فِرْعَوْنُ ذَرُوْنِيْٓ اَقْتُلْ مُوْسٰى وَلْيَدْعُ رَبَّهٗ ۚاِنِّيْٓ اَخَافُ اَنْ يُّبَدِّلَ دِيْنَكُمْ اَوْ اَنْ يُّظْهِرَ فِى الْاَرْضِ الْفَسَادَ٢٦
Wa qāla fir‘aunu żarūnī aqtul mūsā walyad‘u rabbah(ū), innī akhāfu ay yubaddila dīnakum au ay yuẓhira fil-arḍil-fasād(a).
[26] フィルアウン*は、(自分の民の有力者たちに)言った。「私にムーサー*を殺させ、彼を自分の主*に祈らせてみよ。本当に私は、彼があなた方の宗教¹を変えてしまったり、地上(エジプト)に腐敗*を出現させたりすることを怖れているのだ」。
1 フィルアウン*を崇める「宗教」のこと(アル=クルトゥビー15:305参照)。フィルアウン*は神を自称していた。詩人たち章29、物語章38、至高者*章24も参照。

وَقَالَ مُوْسٰىٓ اِنِّيْ عُذْتُ بِرَبِّيْ وَرَبِّكُمْ مِّنْ كُلِّ مُتَكَبِّرٍ لَّا يُؤْمِنُ بِيَوْمِ الْحِسَابِ ࣖ٢٧
Wa qāla mūsā innī ‘użtu birabbī wa rabbikum min kulli mutakabbiril lā yu'minu biyaumil-ḥisāb(i).
[27] ムーサー*は言った。「実に私は、我が主*とあなた方の主*に、清算の日を信じないあらゆる高慢な者からのご加護を乞いました」。

وَقَالَ رَجُلٌ مُّؤْمِنٌۖ مِّنْ اٰلِ فِرْعَوْنَ يَكْتُمُ اِيْمَانَهٗٓ اَتَقْتُلُوْنَ رَجُلًا اَنْ يَّقُوْلَ رَبِّيَ اللّٰهُ وَقَدْ جَاۤءَكُمْ بِالْبَيِّنٰتِ مِنْ رَّبِّكُمْ ۗوَاِنْ يَّكُ كَاذِبًا فَعَلَيْهِ كَذِبُهٗ ۚوَاِنْ يَّكُ صَادِقًا يُّصِبْكُمْ بَعْضُ الَّذِيْ يَعِدُكُمْ ۗاِنَّ اللّٰهَ لَا يَهْدِيْ مَنْ هُوَ مُسْرِفٌ كَذَّابٌ٢٨
Wa qāla rajulum mu'min(um), min āli fir‘auna yaktumu īmānahū ataqtulūna rajulan ay yaqūla rabbiyallāhu wa qad jā'akum bil-bayyināti mir rabbikum, wa iy yaku kāżiban fa ‘alaihi każibuh(ū), wa iy yaku ṣādiqay yuṣibkum ba‘ḍul-lażī ya‘idukum, innallāha lā yahdī man huwa musrifun każżāb(un).
[28] フィルアウン*の一族の内、その信仰を隠していた信仰者の男は、言った。「一体あなた方は一人の男を、『我が主*はアッラー*です』と言う(だけ)ゆえに、殺すというのですか?彼(ムーサー*)はあなた方の主*から、明証¹を携えてあなた方のもとにやって来たと言うのに。そして、もし彼が噓つきならば、その嘘(の罰)は彼自身が負います。また、もし彼が正直者ならば、彼があなた方に約束するものの一部²が、あなた方に襲いかかるでしょう。本当にアッラー*は、(真理への拒否において)度を越した大噓つきを、お導きにはなりません。
1 この「明証」の意味については、アーヤ*23「紛れもない証拠」の訳注を参照(ムヤッサル470頁参照)。 2 これは現世での懲罰のこと(アッ=サァディー736頁参照)。

يٰقَوْمِ لَكُمُ الْمُلْكُ الْيَوْمَ ظٰهِرِيْنَ فِى الْاَرْضِۖ فَمَنْ يَّنْصُرُنَا مِنْۢ بَأْسِ اللّٰهِ اِنْ جَاۤءَنَا ۗقَالَ فِرْعَوْنُ مَآ اُرِيْكُمْ اِلَّا مَآ اَرٰى وَمَآ اَهْدِيْكُمْ اِلَّا سَبِيْلَ الرَّشَادِ٢٩
Yā qaumi lakumul-mulkul-yauma ẓāhirīna fil-arḍ(i), famay yanṣurunā mim ba'sillāhi in jā'anā, qāla fir‘aunu mā urīkum illā mā arā wa mā ahdīkum illā sabīlar-rasyād(i).
[29] 我が民よ、あなた方にこそ今日、地上(エジプト)での勝利者として、王権はあります。でも、アッラー*の(懲罰という)猛威が私たちのもとにやって来たら、誰が私たちを助けてくれるでしょうか?」フィルアウン*は、(自分の民に)言った。「(人々よ、)私があなた方に示すのは、私が(私とあなた方にとって有益なものと)認めるものに外ならない。そして私があなた方を導くのは、正道に外ならないのだ」。

وَقَالَ الَّذِيْٓ اٰمَنَ يٰقَوْمِ اِنِّيْٓ اَخَافُ عَلَيْكُمْ مِّثْلَ يَوْمِ الْاَحْزَابِۙ٣٠
Wa qālal-lażī āmana yā qaumi innī akhāfu ‘alaikum miṡla yaumil-aḥzāb(i).
[30] 信仰する者は言った。「我が民よ、(あなた方がムーサー*を殺せば、)本当に私はあなた方に、徒党の日¹のようなことを怖れるのです。
1 「徒党の日」とは、預言者*たち章に敵対して徒党を組んだ者たちが、罰された日々のことを指す(アル=クルトゥビー15:310参照)。

مِثْلَ دَأْبِ قَوْمِ نُوْحٍ وَّعَادٍ وَّثَمُوْدَ وَالَّذِيْنَ مِنْۢ بَعْدِهِمْ ۗوَمَا اللّٰهُ يُرِيْدُ ظُلْمًا لِّلْعِبَادِ٣١
Miṡla da'bi qaumi nūḥiw wa ‘ādiw wa ṡamūda wal-lażīna mim ba‘dihim, wa mallāhu yurīdu ẓulmal lil-‘ibād(i).
[31] ヌーフ*の民、アード*、サムード*、そして彼らの後の(不信仰)者*たちの習いのようなことを。そしてアッラー*は全世界に対し、断じて不正*などをお望みにはなりません。

وَيٰقَوْمِ اِنِّيْٓ اَخَافُ عَلَيْكُمْ يَوْمَ التَّنَادِۙ٣٢
Wa yā qaumi innī akhāfu ‘alaikum yaumat-tanād(i).
[32] また我が民よ、本当に私はあなた方に。呼び合いの日¹を怖れます。
1 人々が自分の指導者のもとに呼ばれ(夜の旅章71参照)、互いに呼び合い、天国の民と地獄の民、そして高壁の民が互いに呼び合う(高壁章44-51参照)、復活の日*のこと(アル=バガウィー4:112参照)。

يَوْمَ تُوَلُّوْنَ مُدْبِرِيْنَۚ مَا لَكُمْ مِّنَ اللّٰهِ مِنْ عَاصِمٍۚ وَمَنْ يُّضْلِلِ اللّٰهُ فَمَا لَهٗ مِنْ هَادٍ٣٣
Yauma tuwallūna mudbirīn(a), mā lakum minallāhi min ‘āṣim(in), wa may yuḍlilillāhu famā lahū min hād(in).
[33] あなた方が背を向けて逃げる、その日を。あなた方にはアッラー*に対し、いかなる援助者もありません。そしてアッラー*が迷わせ給うた者には、いかなる導き手もないのです。¹
1 アーヤ*33・34にある言葉は、①信仰者の男のもの、②ムーサー*のもの、という説がある。アーヤ*35の言葉は、①アッラー*のもの、②信仰者の男のもの、という説もある(アル=クルトゥビー15:312-313参照)。

وَلَقَدْ جَاۤءَكُمْ يُوْسُفُ مِنْ قَبْلُ بِالْبَيِّنٰتِ فَمَا زِلْتُمْ فِيْ شَكٍّ مِّمَّا جَاۤءَكُمْ بِهٖ ۗحَتّٰىٓ اِذَا هَلَكَ قُلْتُمْ لَنْ يَّبْعَثَ اللّٰهُ مِنْۢ بَعْدِهٖ رَسُوْلًا ۗ كَذٰلِكَ يُضِلُّ اللّٰهُ مَنْ هُوَ مُسْرِفٌ مُّرْتَابٌۙ٣٤
Wa laqad jā'akum yūsufu min qablu bil-bayyināti famā ziltum fī syakkim mimmā jā'akum bih(ī), ḥattā iżā halaka qultum lay yab‘aṡallāhu mim ba‘dihī rasūlā(n), każālika yuḍillullāhu man huwa musrifum murtāb(un).
[34] (ムーサー*)以前、ユースフ*は明証¹を携えて、確かにあなた方のもとにやって来ました。そしてあなた方はまだ、彼があなた方にもたらしたものに対する疑念の中にあるのです。やがて彼が死んだ時、あなた方は(自分たちの疑念とシルク*に拍車をかけて、こう)言いました。『アッラー*は彼の後、使徒*を遣わされることはない』。同様にアッラー*は、(真理への拒否において)度を越し、(アッラーの唯一性*に)疑惑の念を抱く者を(正道から)迷わせられます。
1 この「明証」は、アッラー*だけを崇拝*せよ、という命令と、彼の言葉の正しさを示す証拠のこと(ムヤッサル471頁参照)。

ۨالَّذِيْنَ يُجَادِلُوْنَ فِيْٓ اٰيٰتِ اللّٰهِ بِغَيْرِ سُلْطٰنٍ اَتٰىهُمْۗ كَبُرَ مَقْتًا عِنْدَ اللّٰهِ وَعِنْدَ الَّذِيْنَ اٰمَنُوْا ۗ كَذٰلِكَ يَطْبَعُ اللّٰهُ عَلٰى كُلِّ قَلْبِ مُتَكَبِّرٍ جَبَّارٍ٣٥
Allażīna yujādilūna fī āyātillāhi bigairi sulṭānin atāhum, kabura maqtan ‘indallāhi wa ‘indal-lażīna āmanū, każālika yaṭba‘ullāhu ‘alā kulli qalbi mutakabbirin jabbār(in).
[35] アッラー*の御徴(を拒むこと)において、(アッラー*の御許から)到来した根拠もなく議論する者たち、(そのような議論は)アッラー*の御許と信仰した者たちのもとで、忌まわしいことこの上ないのです。同様にアッラー*は、(アッラー*への服従に対して)高慢で尊大な(あらゆる)者の全ての心を、閉じてしまわれます」。¹
1 アーヤ*33の訳注も参照。

وَقَالَ فِرْعَوْنُ يٰهَامٰنُ ابْنِ لِيْ صَرْحًا لَّعَلِّيْٓ اَبْلُغُ الْاَسْبَابَۙ٣٦
Wa qāla fir‘aunu yā hāmānubni lī ṣarḥal la‘allī ablugul-asbāb(a).
[36] フィルアウン*は、言った「ハーマーン¹よ、私のために塔を建てよ。私が通り道に到達できるように。²
1 「ハーマーン」については、物語章6の訳注を参照。 2 同様のアーヤ*として、物語章38も参照。

اَسْبَابَ السَّمٰوٰتِ فَاَطَّلِعَ اِلٰٓى اِلٰهِ مُوْسٰى وَاِنِّيْ لَاَظُنُّهٗ كَاذِبًا ۗوَكَذٰلِكَ زُيِّنَ لِفِرْعَوْنَ سُوْۤءُ عَمَلِهٖ وَصُدَّ عَنِ السَّبِيْلِ ۗوَمَا كَيْدُ فِرْعَوْنَ اِلَّا فِيْ تَبَابٍ ࣖ٣٧
Asbābas-samāwāti fa aṭṭali‘a ilā ilāhi mūsā wa innī la'aẓunnuhū kāżibā(n), wa każālika zuyyina lifir‘auna sū'u ‘amalihī wa ṣudda ‘anis-sabīl(i), wa mā kaidu fir‘auna illā fī tabāb(in).
[37] 諸天の通り道に。私は、ムーサー*の神を見てみよう。本当に私は、彼がまさに噓つきだと思うのだ」。このように、フィルアウン*には彼の悪い行いが目映く映り、彼は(真理の)道から阻まれた。フィルアウン*の策略¹は、破滅する外ないのである。
1 フィルアウン*が正しく、ムーサー*が間違っていると人々に信じさせる「策略」のこと(ムヤッサル471頁参照)。

وَقَالَ الَّذِيْٓ اٰمَنَ يٰقَوْمِ اتَّبِعُوْنِ اَهْدِكُمْ سَبِيْلَ الرَّشَادِۚ٣٨
Wa qālal-lażī āmana yā qaumittabi‘ūni ahdikum sabīlar-rasyād(i).
[38] 信仰する者は言った。「我が民よ、私に従いなさい。あなた方を正道へと導いてあげましょう。

يٰقَوْمِ اِنَّمَا هٰذِهِ الْحَيٰوةُ الدُّنْيَا مَتَاعٌ ۖوَّاِنَّ الْاٰخِرَةَ هِيَ دَارُ الْقَرَارِ٣٩
Yā qaumi innamā hāżihil-ḥayātud-dun-yā matā‘(un), wa innal-ākhirata hiya dārul-qarār(i).
[39] 我が民よ、本当にこの現世の生活は(僅かな)楽しみなのであり、実に来世こそは、(あなた方が定着する)留まり所なのです。

مَنْ عَمِلَ سَيِّئَةً فَلَا يُجْزٰىٓ اِلَّا مِثْلَهَاۚ وَمَنْ عَمِلَ صَالِحًا مِّنْ ذَكَرٍ اَوْ اُنْثٰى وَهُوَ مُؤْمِنٌ فَاُولٰۤىِٕكَ يَدْخُلُوْنَ الْجَنَّةَ يُرْزَقُوْنَ فِيْهَا بِغَيْرِ حِسَابٍ٤٠
Man ‘amila sayyi'atan falā yujzā illā miṡlahā, wa man ‘amila ṣāliḥam min żakarin au unṡā wa huwa mu'minun fa'ulā'ika yadkhulūnal-jannata yurzaqūna fīhā bigairi ḥisāb(in).
[40] (現世で)悪を行った者は、(来世において)それと同等のものでしか、報われません。そして男性であれ女性であれ、信仰者で正しい行い*を行う者、それらの者たちは天国に入るのです。彼らはそこで際限なく、糧を授けられます。

۞ وَيٰقَوْمِ مَا لِيْٓ اَدْعُوْكُمْ اِلَى النَّجٰوةِ وَتَدْعُوْنَنِيْٓ اِلَى النَّارِۗ٤١
Wa yā qaumi mā lī ad‘ūkum ilan-najāti wa tad‘ūnanī ilan-nār(i).
[41] 我が民よ、どういうことでしょうか?私があなた方を(地獄から天国への)救い¹へと招いているのに、あなた方が私を地獄(の原因となる行い)へ招くのは?
1 つまりアッラー*への信仰と、その使徒*ムーサー*への服従のこと(前掲書472頁参照)。

تَدْعُوْنَنِيْ لِاَكْفُرَ بِاللّٰهِ وَاُشْرِكَ بِهٖ مَا لَيْسَ لِيْ بِهٖ عِلْمٌ وَّاَنَا۠ اَدْعُوْكُمْ اِلَى الْعَزِيْزِ الْغَفَّارِ٤٢
Tad‘ūnanī li'akfura billāhi wa usyrika bihī mā laisa lī bihī ‘ilmuw wa ana ad‘ūkum ilal-‘azīzil-gaffār(i).
[42] あなた方は私がアッラー*を否定し、私が(その崇拝*の正当性について)何も知らないものを、かれに並べることへと招いているのです。私はあなた方を、偉力ならびなく*、赦し深いお方へ(通じる道へ)と招いているというのに。

لَا جَرَمَ اَنَّمَا تَدْعُوْنَنِيْٓ اِلَيْهِ لَيْسَ لَهٗ دَعْوَةٌ فِى الدُّنْيَا وَلَا فِى الْاٰخِرَةِ وَاَنَّ مَرَدَّنَآ اِلَى اللّٰهِ وَاَنَّ الْمُسْرِفِيْنَ هُمْ اَصْحٰبُ النَّارِ٤٣
Lā jarama annamā tad‘ūnanī ilaihi laisa lahū da‘watun fid-dun-yā wa lā fil-ākhirati wa anna maraddanā ilallāhi wa annal-musrifīna hum aṣḥābun-nār(i).
[43] 間違いなく、あなた方が私を招いているものには、現世においても来世においても、いかなる招き(の価値)もありません。そして私たちの戻り場所がアッラー*の御許であり、(罪に)度を越した者たちこそが、地獄の徒であるということも」。

فَسَتَذْكُرُوْنَ مَآ اَقُوْلُ لَكُمْۗ وَاُفَوِّضُ اَمْرِيْٓ اِلَى اللّٰهِ ۗاِنَّ اللّٰهَ بَصِيْرٌ ۢبِالْعِبَادِ٤٤
Fa satażkurūna mā aqūlu lakum, wa ufawwiḍu amrī ilallāh(i), innallāha baṣīrum bil-‘ibād(i).
[44] (そして民が彼の助言に従わなかった時、彼は言った。)「それでは、あなた方は私があなた方に言っていることを、やがて思い出すでしょう。私はアッラー*に、自分の事を委ねます。本当にアッラー*は、僕たちのことを、よくご覧になるのですから」。

فَوَقٰىهُ اللّٰهُ سَيِّاٰتِ مَا مَكَرُوْا وَحَاقَ بِاٰلِ فِرْعَوْنَ سُوْۤءُ الْعَذَابِۚ٤٥
Fa waqāhullāhu sayyi'āti mā makarū wa ḥāqa bi'āli fir‘auna sū'al-‘ażāb(i).
[45] こうしてアッラー*は彼を、彼らが策謀したことの悪からお守りになり、(溺死という)忌まわしい懲罰がフィルアウン*の一族を包囲した。

اَلنَّارُ يُعْرَضُوْنَ عَلَيْهَا غُدُوًّا وَّعَشِيًّا ۚوَيَوْمَ تَقُوْمُ السَّاعَةُ ۗ اَدْخِلُوْٓا اٰلَ فِرْعَوْنَ اَشَدَّ الْعَذَابِ٤٦
An-nāru yu‘raḍūna ‘alaihā guduwwaw wa ‘asyiyyā(n), wa yauma taqūmus-sā‘ah(tu), adkhilū āla fir‘auna asyaddal-‘ażāb(i).
[46] (更にその死後には、)朝に夕に晒されることになる業火が(、彼らを包囲する)。そして(復活*の)その時が起こる日、(彼らにはこう言われるのだ、)「フィルアウン*の一族を、最も厳しい懲罰に入れよ」。¹
1 死後、復活の日*まで、彼らの魂は業火に晒される。そして復活の日*が来れば、魂と肉体が合わさった形で、地獄の業火に入れられることになる(イブン・カスィール7:146参照)。

وَاِذْ يَتَحَاۤجُّوْنَ فِى النَّارِ فَيَقُوْلُ الضُّعَفٰۤؤُا لِلَّذِيْنَ اسْتَكْبَرُوْٓا اِنَّا كُنَّا لَكُمْ تَبَعًا فَهَلْ اَنْتُمْ مُّغْنُوْنَ عَنَّا نَصِيْبًا مِّنَ النَّارِ٤٧
Wa iż yataḥājjūna fin-nāri fayaqūluḍ-ḍu‘afā'u lil-lażīnastakbarū innā kunnā lakum taba‘an fahal antum mugnūna ‘annā naṣībam minan-nār(i).
[47] 彼らが(地獄の)業火で議論し合い、弱者たちが高慢だった者たち¹に(こう)言う時のこと(を思い起こさせよ)。「本当に私たちは(現世で)あなた方に追従していたわけだが、(この日)あなた方は業火の一部からでも、私たちを守ってくれるのか?」
1 「弱者たち」と「高慢だった者たち」については、イブラーヒーム*章21の訳注を参照。また同様の情景の描写として、雌牛章166-167、高壁章38、識別章17-19、物語章63、部族連合章67-68、サバア章31-33も参照。

قَالَ الَّذِيْنَ اسْتَكْبَرُوْٓا اِنَّا كُلٌّ فِيْهَآ اِنَّ اللّٰهَ قَدْ حَكَمَ بَيْنَ الْعِبَادِ٤٨
Qālal-lażīnastakbarū innā kullun fīhā innallāha qad ḥakama bainal-‘ibād(i).
[48] 高慢だった者たちは、言う。「(そのようなことは出来ない。)本当に私たちは皆、(地獄の)その中にあるのだ。本当にアッラー*は、確かに僕たちの間に裁きを下されたのである¹」。
1 つまりアッラー*はその公正な裁決により、彼らの間に、各人に適当な形で懲罰を振り分けられた(ムヤッサル472頁参照)。

وَقَالَ الَّذِيْنَ فِى النَّارِ لِخَزَنَةِ جَهَنَّمَ ادْعُوْا رَبَّكُمْ يُخَفِّفْ عَنَّا يَوْمًا مِّنَ الْعَذَابِ٤٩
Wa qālal-lażīna fin-nāri likhazanati jahannamad‘ū rabbakum yukhaffif ‘annā yaumam minal-‘ażāb(i).
[49] また、業火の中にある者たちは、地獄の門番たちに言う。「あなた方の主*に祈ってくれ。かれが私たちから、一日でも懲罰を軽減して下さるよう」。¹
1 金の装飾章77も参照。

قَالُوْٓا اَوَلَمْ تَكُ تَأْتِيْكُمْ رُسُلُكُمْ بِالْبَيِّنٰتِ ۗقَالُوْا بَلٰىۗ قَالُوْا فَادْعُوْا ۚوَمَا دُعٰۤؤُا الْكٰفِرِيْنَ اِلَّا فِيْ ضَلٰلٍ ࣖ٥٠
Qālū awalam taku ta'tīkum rusulukum bil-bayyināt(i), qālū balā, qālū fad‘ū, wa mā du‘ā'ul-kāfirīna illā fī ḍalāl(in).
[50] 彼ら(地獄の門番たち)は言う。「一体、あなた方の使徒*たちは明証を携えて、あなた方のもとに到来していたのではなかったか?」彼ら(地獄の民)は言う。「その通りです」。彼ら(門番たち)は言う。「ならば(私たちは祈らないから、)あなた方が祈るがよい。不信仰者*たちの祈願は、まったくの徒労である」。

اِنَّا لَنَنْصُرُ رُسُلَنَا وَالَّذِيْنَ اٰمَنُوْا فِى الْحَيٰوةِ الدُّنْيَا وَيَوْمَ يَقُوْمُ الْاَشْهَادُۙ٥١
Innā lananṣuru rusulanā wal-lażīna āmanū fil-ḥayātid-dun-yā wa yauma yaqūmul-asyhād(u).
[51] 本当にわれら*は、現世の生活と、証人たちが立つ¹(復活の)日*に、われら*の使徒*たちと、信仰する者たちを必ずや助けるのである。
1 復活の日*の証人については、雌牛章143、婦人章41を参照。

يَوْمَ لَا يَنْفَعُ الظّٰلِمِيْنَ مَعْذِرَتُهُمْ وَلَهُمُ اللَّعْنَةُ وَلَهُمْ سُوْۤءُ الدَّارِ٥٢
Yauma lā yanfa‘uẓ-ẓālimīna ma‘żiratuhum wa lahumul-la‘natu wa lahum sū'ud-dār(i).
[52] 不正*者たちをその言い訳が益することがない、その日に。そして彼らの上には呪いがあり、彼らには(来世で)忌まわしい住まいがある。

وَلَقَدْاٰتَيْنَا مُوْسَى الْهُدٰى وَاَوْرَثْنَا بَنِيْٓ اِسْرَاۤءِيْلَ الْكِتٰبَۙ٥٣
Wa laqad ātainā mūsal-hudā wa auraṡnā banī isrā'īlal-kitāb(a).
[53] われら*は確かにムーサー*に導きを授け、イスライールの子ら*に啓典(トーラー*)を引き継がせた。

هُدًى وَّذِكْرٰى لِاُولِى الْاَلْبَابِ٥٤
Hudaw wa żikrā li'ulil-albāb(i).
[54] 澄んだ理性の持ち主への導きと、教訓として。

فَاصْبِرْ اِنَّ وَعْدَ اللّٰهِ حَقٌّ وَّاسْتَغْفِرْ لِذَنْۢبِكَ وَسَبِّحْ بِحَمْدِ رَبِّكَ بِالْعَشِيِّ وَالْاِبْكَارِ٥٥
Faṣbir inna wa‘dallāhi ḥaqquw wastagfir liżambika wa sabbiḥ biḥamdi rabbika bil-‘asyiyyi wal-ibkār(i).
[55] ならば(使徒*よ)、忍耐*せよ。本当にアッラー*のお約束は真実なのだ。そしてあなたの罪の赦しを乞い、夕に朝に、あなたの主*の称賛*と共に(かれを)称える*のだ。

اِنَّ الَّذِيْنَ يُجَادِلُوْنَ فِيْٓ اٰيٰتِ اللّٰهِ بِغَيْرِ سُلْطٰنٍ اَتٰىهُمْ ۙاِنْ فِيْ صُدُوْرِهِمْ اِلَّا كِبْرٌ مَّا هُمْ بِبَالِغِيْهِۚ فَاسْتَعِذْ بِاللّٰهِ ۗاِنَّهٗ هُوَ السَّمِيْعُ الْبَصِيْرُ٥٦
Innal-lażīna yujādilūna fī āyātillāhi bigairi sulṭānin atāhum, in fī ṣudūrihim illā kibrum mā hum bibāligīh(i), fasta‘iż billāh(i), innahū huwas-samī‘ul-baṣīr(u).
[56] 本当にアッラー*の御徴(を拒むこと)において、(アッラー*から)到来した根拠もなく議論する者たち、彼らの胸の内には、彼らが到達することもないもの¹に対する高慢さしかない。ならばアッラー*に、(彼らの悪からの)ご加護を乞え。本当にかれこそは、よくお聞きになるお方、よくご覧になるお方なのだから。
1 アッラー*が預言者*に授けられた恩寵(おんちょう)や、預言者*としての使命という栄誉のこと(ムヤッサル473頁参照)。

لَخَلْقُ السَّمٰوٰتِ وَالْاَرْضِ اَكْبَرُ مِنْ خَلْقِ النَّاسِ وَلٰكِنَّ اَكْثَرَ النَّاسِ لَا يَعْلَمُوْنَ٥٧
Lakhalqus-samāwāti wal-arḍi akbaru min khalqin-nāsi wa lākinna akṡaran-nāsi lā ya‘lamūn(a).
[57] 諸天と大地の創造こそは、人々の創造(とその再生)よりも偉大なのだ。しかし、人々の大半は分からない。

وَمَا يَسْتَوِى الْاَعْمٰى وَالْبَصِيْرُ ەۙ وَالَّذِيْنَ اٰمَنُوْا وَعَمِلُوا الصّٰلِحٰتِ وَلَا الْمُسِيْۤئُ ۗقَلِيْلًا مَّا تَتَذَكَّرُوْنَ٥٨
Wa mā yastawil-a‘mā wal-baṣīr(u), wal-lażīna āmanū wa ‘amiluṣ-ṣāliḥāti wa lal-musī'(u), qalīlam mā tatażakkarūn(a).
[58] また、盲人と見える者は同じではなく¹、信仰して正しい行い*を行う者たちと悪い行いの者²は、同じではない。あなた方が教訓を得ることの、少ないこと。
1 この意味については、家畜章50の訳注を参照。 2 前者はアッラー*が唯一、真に崇拝*に値する存在であることを認め、その使徒*たちの招きに応え、アッラー*の教えに沿って行う者たち。後者はそのようにしない者のこと(ムヤッサル473頁参照)。

اِنَّ السَّاعَةَ لَاٰتِيَةٌ لَّا رَيْبَ فِيْهَا ۖوَلٰكِنَّ اَكْثَرَ النَّاسِ لَا يُؤْمِنُوْنَ٥٩
Innas-sā‘ata la'ātiyatul lā raiba fīhā, wa lākinna akṡaran-nāsi lā yu'minūn(a).
[59] 本当に(復活の)その時は、疑惑の余地なく、必ずや到来する。しかし、人々の大半は信じないのだ。

وَقَالَ رَبُّكُمُ ادْعُوْنِيْٓ اَسْتَجِبْ لَكُمْ ۗاِنَّ الَّذِيْنَ يَسْتَكْبِرُوْنَ عَنْ عِبَادَتِيْ سَيَدْخُلُوْنَ جَهَنَّمَ دَاخِرِيْنَ ࣖ٦٠
Wa qāla rabbukumud‘ūnī astajib lakum, innal-lażīna yastakbirūna ‘an ‘ibādatī sayadkhulūna jahannama dākhirīn(a).
[60] また(人々よ)、あなた方の主*は仰せられた。「私に(のみ)祈るのだ。そうすればわれは、あなた方に応えよう。本当にわれの崇拝*に対して奢り高ぶる者たちは、やがて蔑まれた者となって、地獄に入ることになる。

اَللّٰهُ الَّذِيْ جَعَلَ لَكُمُ الَّيْلَ لِتَسْكُنُوْا فِيْهِ وَالنَّهَارَ مُبْصِرًا ۗاِنَّ اللّٰهَ لَذُوْ فَضْلٍ عَلَى النَّاسِ وَلٰكِنَّ اَكْثَرَ النَّاسِ لَا يَشْكُرُوْنَ٦١
Allāhul-lażī ja‘ala lakumul-laila litaskunū fīhi wan-nahāra mubṣirā(n), innallāha lażū faḍlin ‘alan-nāsi wa lākinna akṡaran-nāsi lā yasykurūn(a).
[61] アッラー*はあなた方のために、あなた方がそこで安らぐべく夜をお創りになり、昼を(生活のために)視界が利くものとされた。本当にアッラー*はまさしく人々に対する恩寵の主であられるが、人々の大半は(かれへの服従と崇拝*によって、かれに)感謝しない。

ذٰلِكُمُ اللّٰهُ رَبُّكُمْ خَالِقُ كُلِّ شَيْءٍۘ لَآ اِلٰهَ اِلَّا هُوَ ۖفَاَنّٰى تُؤْفَكُوْنَ٦٢
Żālikumullāhu rabbukum khāliqu kulli syai'(in), lā ilāha illā huw(a), fa'annā tu'fakūn(a).
[62] そのお方がアッラー*、あなた方の主*、全ての創造主。かれの外に、崇拝*すべきいかなるものもない。なのに一体、どうしてあなた方は(かれを信仰し、崇拝*することから)背かされるのか?

كَذٰلِكَ يُؤْفَكُ الَّذِيْنَ كَانُوْا بِاٰيٰتِ اللّٰهِ يَجْحَدُوْنَ٦٣
Każālika yu'fakul-lażīna kānū bi'āyātillāhi yajḥadūn(a).
[63] 同様に、アッラー*の御徴を否定していた者たちは、(真理から)背かされるのである。

اَللّٰهُ الَّذِيْ جَعَلَ لَكُمُ الْاَرْضَ قَرَارًا وَّالسَّمَاۤءَ بِنَاۤءً وَّصَوَّرَكُمْ فَاَحْسَنَ صُوَرَكُمْ وَرَزَقَكُمْ مِّنَ الطَّيِّبٰتِ ۗذٰلِكُمُ اللّٰهُ رَبُّكُمْ ۚ فَتَبٰرَكَ اللّٰهُ رَبُّ الْعٰلَمِيْنَ٦٤
Allāhul-lażī ja‘ala lakumul-arḍa qarāraw was-samā'a binā'aw wa ṣawwarakum fa'aḥsana ṣuwarakum wa razaqakum minaṭ-ṭayyibāt(i), żālikumullāhu rabbukum, fatabārakallāhu rabbul-‘ālamīn(a).
[64] アッラー*はあなた方のために大地を安住の地とされ、空を屋根とされたお方。また、かれはあなた方にを形づくられ、あなた方の形を最善のものとされ、あなた方に善きものの内からお恵みになった(お方)。そのお方がアッラー*、あなた方の主*。そして全創造物の主*アッラー*は、祝福にあふれたお方よ。

هُوَ الْحَيُّ لَآ اِلٰهَ اِلَّا هُوَ فَادْعُوْهُ مُخْلِصِيْنَ لَهُ الدِّيْنَ ۗ اَلْحَمْدُ لِلّٰهِ رَبِّ الْعٰلَمِيْنَ٦٥
Huwal-ḥayyu lā ilāha illā huwa fad‘ūhu mukhliṣīna lahud-dīn(a), al-ḥamdu lillāhi rabbil-‘ālamīn(a).
[65] かれは永生されるお方。かれの外に崇拝*すべきいかなるものもない。ゆえに、かれだけに真摯に崇拝*行為を捧げつつ¹、かれに祈るのだ。全創造物の主*アッラー*に称賛*あれ。
1 「かれだけに真摯に崇拝*行為を捧げる」ことについては、婦人章146の訳注を参照。

۞ قُلْ اِنِّيْ نُهِيْتُ اَنْ اَعْبُدَ الَّذِيْنَ تَدْعُوْنَ مِنْ دُوْنِ اللّٰهِ لَمَّا جَاۤءَنِيَ الْبَيِّنٰتُ مِنْ رَّبِّيْ وَاُمِرْتُ اَنْ اُسْلِمَ لِرَبِّ الْعٰلَمِيْنَ٦٦
Qul innī nuhītu an a‘budal-lażīna tad‘ūna min dūnillāhi lammā jā'aniyal-bayyinātu mir rabbī wa umirtu an uslima lirabbil-‘ālamīn(a).
[66] (使徒*よ)言ってやるがいい。「本当に私は、我が主*からの明証¹が自分に訪れた時、あなた方がアッラー*、を差しおいて祈っている者たちの崇拝*を禁じられたのだ。また私は、全創造物の主*に服従(イスラーム*)するよう命じられたのである」。
1 この「明証」とは、アッラーの唯一性*を示す、論理的根拠と神的根拠(啓示)のこと(アッ=シャウカーニー4:656参照)。

هُوَ الَّذِيْ خَلَقَكُمْ مِّنْ تُرَابٍ ثُمَّ مِنْ نُّطْفَةٍ ثُمَّ مِنْ عَلَقَةٍ ثُمَّ يُخْرِجُكُمْ طِفْلًا ثُمَّ لِتَبْلُغُوْٓا اَشُدَّكُمْ ثُمَّ لِتَكُوْنُوْا شُيُوْخًا ۚوَمِنْكُمْ مَّنْ يُّتَوَفّٰى مِنْ قَبْلُ وَلِتَبْلُغُوْٓا اَجَلًا مُّسَمًّى وَّلَعَلَّكُمْ تَعْقِلُوْنَ٦٧
Huwal-lażī khalaqakum min turābin ṡumma min nuṭfatin ṡumma min ‘alaqatin ṡumma yukhrijukum ṭiflan ṡumma litablugū asyuddakum ṡumma litakūnū syuyūkhā(n), wa minkum may yutawaffā min qablu wa litablugū ajalam musammaw wa la‘allakum ta‘qilūn(a).
[67] かれはあなた方(の父祖アーダム*)を土から¹、そして(あなた方を)一滴の精液から、次いで一塊の凝血からお創りになり、その後あなた方を子供として(生まれ)出させ、それからあなた方が成熟に達し、更に老人になるべく(あなた方の年齢を積み重ねてか行かれる)。あなた方の内には、(これらの段階)以前に召される者もいる。また、かれは、あなた方が(これらの段階を経て)定められた時期²へと到達すべく(、あなた方の年齢を積み重ねて行かれる)。そして(それは、)あなた方が弁える³ようにするためなのだ。
1 アーダム*が土から段階を経(へ)て創られたことについては、アル=ヒジュル章26の訳注を参照。 2 「定められた時期」とは、死期、あるいは復活の日*のこと(アル=バイダーウィー5:100参照)。 3 そのようなことがお出来になるのはアッラー*のみであり、崇拝*はかれにのみ行わなければならないということを「弁える」こと(ムヤッサル475頁参照)。

هُوَ الَّذِيْ يُحْيٖ وَيُمِيْتُۚ فَاِذَا قَضٰىٓ اَمْرًا فَاِنَّمَا يَقُوْلُ لَهٗ كُنْ فَيَكُوْنُ ࣖ٦٨
Huwal-lażī yuḥyī wa yumīt(u), fa'iżā qaḍā amran fa'innamā yaqūlu lahū kun fa yakūn(u).
[68] かれは生を与えられ、死をお与えになるお方。そして、かれが一事をお取り決めにな(り、お望みにな)れば、それに「あれ」と仰せられるだけで、それは存在するのである。

اَلَمْ تَرَ اِلَى الَّذِيْنَ يُجَادِلُوْنَ فِيْٓ اٰيٰتِ اللّٰهِ ۗاَنّٰى يُصْرَفُوْنَۚ٦٩
Alam tara ilal-lażīna yujādilūna fī āyātillāh(i), annā yuṣrafūn(a).
[69] (使徒*よ、)一体あなたは、アッラー*の御徴¹に(盾ついて)議論する者たちが、いかに(そこから)逸らされてしまっているか、見ないのか?
1 この「御徴」は、アッラーの唯一性*と御力を示す、明白な証拠のこと(前掲書、同頁参照)。

اَلَّذِيْنَ كَذَّبُوْا بِالْكِتٰبِ وَبِمَآ اَرْسَلْنَا بِهٖ رُسُلَنَا ۗفَسَوْفَ يَعْلَمُوْنَۙ٧٠
Allażīna każżabū bil kitābi wa bimā arsalnā bihī rusulanā, fasaufa ya‘lamūn(a).
[70] (彼らは)啓典と、われら*がわれら*の使徒*たちと共に遣わしたもの¹を、嘘呼ばわりした者たち。ならば、彼らはやがて(その結末を)知ることになろう。
1 「啓典」はクルアーン*で、「・・・と共に遣わしたもの」はそれ以前の啓典のこと(前掲書、同頁参照)。

اِذِ الْاَغْلٰلُ فِيْٓ اَعْنَاقِهِمْ وَالسَّلٰسِلُۗ يُسْحَبُوْنَۙ٧١
Iżil-aglālu fī a‘nāqihim was-salāsil(u), yusḥabūn(a).
[71] その首に枷と、(その足に)鎖が付けられて、(それで)彼らが引き回される時に。

فِى الْحَمِيْمِ ەۙ ثُمَّ فِى النَّارِ يُسْجَرُوْنَۚ٧٢
Fil-ḥamīm(i), ṡumma fin-nāri yusjarūn(a).
[72] 煮えたぎる湯の中で、それから業火の中で、彼らは(彼ら自身がその燃料となって、地獄を)煮えたぎらされる。

ثُمَّ قِيْلَ لَهُمْ اَيْنَ مَا كُنْتُمْ تُشْرِكُوْنَۙ٧٣
Ṡumma qīla lahum aina mā kuntum tusyrikūn(a).
[73] それから彼らに、(こう)言われる。「あなた方が(アッラー*の崇拝*において、かれと)並べていた者たちは、どこなのか?¹
1 それらはあなた方をこの日、助けてはくれないのか、の意(ムヤッサル475頁参照)。

مِنْ دُوْنِ اللّٰهِ ۗقَالُوْا ضَلُّوْا عَنَّا بَلْ لَّمْ نَكُنْ نَّدْعُوْا مِنْ قَبْلُ شَيْـًٔاۗ كَذٰلِكَ يُضِلُّ اللّٰهُ الْكٰفِرِيْنَ٧٤
Min dūnillāh(i), qālū ḍallū ‘annā bal lam nakun nad‘ū min qablu syai'ā(n), każālika yuḍillullāhul-kāfirīn(a).
[74] アッラー*をよそにして?」彼らは言う。「私たちのもとから、いなくなってしまいました。いえ、私たち以前、何に祈っていたわけでもなかったのです¹」。同様にアッラー*は、不信仰者*たちを(天国から)迷わせ給う。
1 彼らが崇(あが)めていたものは。実体がないものだったのである(前掲書、同頁参照)。

ذٰلِكُمْ بِمَا كُنْتُمْ تَفْرَحُوْنَ فِى الْاَرْضِ بِغَيْرِ الْحَقِّ وَبِمَا كُنْتُمْ تَمْرَحُوْنَ٧٥
Żālikum bimā kuntum tafraḥūna fil-arḍi bigairil-ḥaqqi wa bimā kuntum tamraḥūn(a).
[75] それというのも、あなた方が地上で不当にも(罪を犯すことに)有頂天になっていたため、そしてあなた方が(他の僕たちに対して)得意然となっていたためなのだ。

اُدْخُلُوْٓا اَبْوَابَ جَهَنَّمَ خٰلِدِيْنَ فِيْهَا ۚفَبِئْسَ مَثْوَى الْمُتَكَبِّرِيْنَ٧٦
Udkhlulū abwāba jahannama khālidīna fīhā, fabi'sa maṡwal-mutakabūbirīn(a).
[76] 地獄の門に入るがよい。そこに永遠に。(アッラー*に対して)高慢な者たちの住まいは、何と醜悪なことか」。

فَاصْبِرْ اِنَّ وَعْدَ اللّٰهِ حَقٌّ ۚفَاِمَّا نُرِيَنَّكَ بَعْضَ الَّذِيْ نَعِدُهُمْ اَوْ نَتَوَفَّيَنَّكَ فَاِلَيْنَا يُرْجَعُوْنَ٧٧
Faṣbir inna wa‘dallāhi ḥaqq(un), fa'immā nuriyannaka ba‘ḍal-lażī na‘iduhum au natawaffayannaka fa'ilainā yurja‘ūn(a).
[77] ならば、(使徒*よ)、忍耐*せよ。実にアッラー*のお約束は、真実なのだ。たとえ、われら*が(あなたの存命中、)彼らに約束したものの一部¹をあなたに見せてやるにせよ、あるいは(その前に)あなたを召すにせよ、(復活の日*、)われら*(の御許)にこそ彼らは戻らされ(て、罰されることにな)るのである。
1 「約束されたものの一部」については、ユーヌス*章46の訳注を参照。

وَلَقَدْ اَرْسَلْنَا رُسُلًا مِّنْ قَبْلِكَ مِنْهُمْ مَّنْ قَصَصْنَا عَلَيْكَ وَمِنْهُمْ مَّنْ لَّمْ نَقْصُصْ عَلَيْكَ ۗوَمَا كَانَ لِرَسُوْلٍ اَنْ يَّأْتِيَ بِاٰيَةٍ اِلَّا بِاِذْنِ اللّٰهِ ۚفَاِذَا جَاۤءَ اَمْرُ اللّٰهِ قُضِيَ بِالْحَقِّ وَخَسِرَ هُنَالِكَ الْمُبْطِلُوْنَ ࣖ٧٨
Wa laqad arsalnā rusulam min qablika minhum man qaṣaṣnā ‘alaika wa minhum mal lam naqṣuṣ ‘alaik(a), wa mā kāna lirasūlin ay ya'tiya bi'āyatin illā bi'iżnillāh(i), fa'iżā jā'a amrullāhi quḍiya bil-ḥaqqi wa khasira hunālikal-mubṭilūn(a).
[78] (使徒*よ、)われら*はあなた以前、確かに使徒*たちを遣わした。彼らの中には、われら*があなたに語って聞かせた者もいるし、その中には、われら*があなたに語って聞かせなかった者もいる。また、いかなる使徒*も、アッラー*のお許しなしには御徴¹をもたらすことなどなかった。そしてアッラー*のご命令が到来すれば、(使徒*たちと彼らを噓つき呼ばわりしていた者たちの間は)真実によって裁かれ、(真実を)虚妄とする者たちは、そこで損失するのである。
1 この「御徴」とは、論理的証拠(啓示・論証)と感覚的証拠(奇跡)のこと(ムヤッサル476頁参照)。

اَللّٰهُ الَّذِيْ جَعَلَ لَكُمُ الْاَنْعَامَ لِتَرْكَبُوْا مِنْهَا وَمِنْهَا تَأْكُلُوْنَۖ٧٩
Allāhul-lażī ja‘ala lakumul-an‘āma litarkabū minhā wa minhā ta'kulūn(a).
[79] アッラー*は、あなた方のために家畜¹をご用意されたお方。それはあなた方がその内のものに乗り、そこから食べるため。
1 「家畜」については、食卓章1「家畜獣」の訳注を参照。

وَلَكُمْ فِيْهَا مَنَافِعُ وَلِتَبْلُغُوْا عَلَيْهَا حَاجَةً فِيْ صُدُوْرِكُمْ وَعَلَيْهَا وَعَلَى الْفُلْكِ تُحْمَلُوْنَۗ٨٠
Wa lakum fīhā manāfi‘u wa litablugū ‘alaihā ḥājatan fī ṣudūrikum wa ‘alaihā wa ‘alal-fulki tuḥmalūn(a).
[80] またそこ(家畜)には、あなた方のための諸利益¹がある。そしてそれらに乗って、あなた方の脳裏に浮かぶ(遠い場所での)用事を果たすため(、アッラー*ははそれらをあなた方にご用意された)。あなた方はそれらや、船に乗って運ばれる。
1 具体的な利益の例については、蜜蜂章5-8、80も参照。

وَيُرِيْكُمْ اٰيٰتِهٖۖ فَاَيَّ اٰيٰتِ اللّٰهِ تُنْكِرُوْنَ٨١
Wa yurīkum āyātih(ī), fa ayya āyātillāhi tunkirūn(a).
[81] また、かれはあなた方に、その(御力と、かれこそが全創造を司っているのだということを示す)御徴をお見せになる。一体あなた方は、アッラー*のいずれの御徴を否定するというのか?

اَفَلَمْ يَسِيْرُوْا فِى الْاَرْضِ فَيَنْظُرُوْا كَيْفَ كَانَ عَاقِبَةُ الَّذِيْنَ مِنْ قَبْلِهِمْ ۗ كَانُوْٓا اَكْثَرَ مِنْهُمْ وَاَشَدَّ قُوَّةً وَّاٰثَارًا فِى الْاَرْضِ فَمَآ اَغْنٰى عَنْهُمْ مَّا كَانُوْا يَكْسِبُوْنَ٨٢
Afalam yasīrū fil-arḍi fa yanẓurū kaifa kāna ‘āqibatul-lażīna min qablihim, kānū akṡara minhum wa asyadda quwwataw wa āṡāran fil-arḍi famā agnā ‘anhum mā kānū yaksibūn(a).
[82] 一体、彼らは地上を旅し、彼ら以前(預言者*たちを噓つき呼ばわりした)者たちの結末がどのようなものであったかを、見なかったのか?彼ら(以前の者たち)は、彼らよりも多勢で、力と、大地の建設において強力だった。そして(アッラー*の懲罰が降りかかった時、)彼らが稼いでいたものは、彼らを益することがなかったのだ。

فَلَمَّا جَاۤءَتْهُمْ رُسُلُهُمْ بِالْبَيِّنٰتِ فَرِحُوْا بِمَا عِنْدَهُمْ مِّنَ الْعِلْمِ وَحَاقَ بِهِمْ مَّا كَانُوْا بِهٖ يَسْتَهْزِءُوْنَ٨٣
Falammā jā'athum rusuluhum bil-bayyināti fariḥū bimā ‘indahum minal-‘ilmi wa ḥāqa bihim mā kānū bihī yastahzi'ūn(a).
[83] また、彼らのもとに彼らの使徒たちが明証を携えてやってきた時、彼らは自分たちのもとにある知識¹に有頂天になった。そして自分たちが嘲笑していたもの(懲罰)が、彼らを包囲したのだ。
1 「自分たちのもとにある知識」の解釈には、「彼ら(不信仰者*たち)の、『自分たちは罰されることも、蘇(よみがえ)らされることもないことを知っている』という主張」「彼ら(不信仰者*)の、現世に関する知識(ビザンチン章7も参照)」「彼ら(預言者*たち)がアッラー*から授かった、『信仰者が救われ、不信仰者*たちが滅ぼされる』という知識」といった諸説がある(アル=クルトゥビー15:336参照)。

فَلَمَّا رَاَوْا بَأْسَنَاۗ قَالُوْٓا اٰمَنَّا بِاللّٰهِ وَحْدَهٗ وَكَفَرْنَا بِمَا كُنَّا بِهٖ مُشْرِكِيْنَ٨٤
Falammā ra'au ba'sanā qālū āmannā billāhi waḥdahū wa kafarnā bimā kunnā bihī musyrikīn(a).
[84] また、われら*の猛威(という懲罰)を目の当たりにした時、彼らは(こう)言ったのだ。「私たちはアッラー*だけを信じ、私たちがかれに並べて(崇拝*して)いたものを、否定しました」。

فَلَمْ يَكُ يَنْفَعُهُمْ اِيْمَانُهُمْ لَمَّا رَاَوْا بَأْسَنَا ۗسُنَّتَ اللّٰهِ الَّتِيْ قَدْ خَلَتْ فِيْ عِبَادِهٖۚ وَخَسِرَ هُنَالِكَ الْكٰفِرُوْنَ ࣖ٨٥
Falam yaku yanfa‘uhum īmānuhum lammā ra'au ba'sanā, sunnatallāhil latī qad khalat fī ‘ibādih(ī), wa khasira hunālikal-kāfirūn(a).
[85] そして彼らの信仰は(その時)、彼らを益することがなかった¹。彼らが、われら*の猛威(という懲罰)を目の当たりにした時には(、もう遅かったのだ)。(懲罰が訪れたら信仰しても遅いという、)かれの僕たちにおいて過ぎ去ってきた、アッラー*の摂理。そして不信仰者*たちは、そこで損失したのである。
1 家畜章158とその訳注も参照。